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民主党がたどる日本社会党の運命(下)

山下一仁 キヤノングローバル戦略研究所研究主幹

 第三に、もっとも重要な共通点は、政権交代時の高揚と政権運営失敗後の凋落ぶりである。

 3年前の政権交代時には、長年続いた自民党政権への倦怠感とともに、民主党が掲げたマニフェスト、事務次官会議の廃止や国家戦略会議の創設などの官僚支配を排した政治主導、事業仕分けや「コンクリートから人へ」など新しい行政手法への、期待感・フレッシュ感があった。

 しかし、甘い財源見通しや小沢氏による重要事項の撤回など、マニフェストの多くの政策が実現できないことが次第に明らかになった。同時に、実務担当能力のない政治家による政治主導が行政に混乱と停滞をもたらす一方で、行政における権限や位置づけが明らかでない事業仕分けの結果が各省庁によって無視されるなど、民主党に政権担当能力がないことも露呈していった。これに拍車をかけたのが、普天間の米軍基地問題をめぐる、鳩山由起夫総理の混乱・迷走ぶりだった。片山哲は1949年の選挙で落選したが、鳩山氏は出馬さえかなわず、政界引退に追い込まれた。

 片山内閣誕生の際も、国民は、新憲法下での民主化と革新の息吹きを感じたし、クリスチャンである片山哲に対するマッカーサーの期待も大きかった。

 ただし、先の民主党内閣と異なり、社会党議員に行政担当能力がないことを承知していた片山内閣は、官僚の力を排除しようとはしなかった。片山内閣は別名安本(アンポン)内閣と言われた。安本とは、戦後出現した、経済の全てを統括したスーパー官庁、“経済安定本部”のことである。長官には前の吉田内閣の農林大臣として第二次農地改革を実行した、官界を代表する元農林官僚、和田博雄が任命された(現状からは想像できないかもしれないが、1960年代まで農林省は一流官庁だった)。

 和田は吉田内閣でも、経済安定本部総裁審議室により「各省の事情に精通しかつ各省の人材を抜擢して経済安定本部を強化しうる人物」として吉田に推薦され、吉田も経済安定本部長官に任命しようとしたが、農地改革を実行した和田に保守党は強く反対し、実現しなかった。和田経済安定本部長官は、吉田内閣の傾斜生産方式の実現に尽力した。

 そもそも、

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