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第3の8・15から東アジアの緊張緩和を考える(下)

小原篤次 大学教員(国際経済、経済政策、金融)

 韓国の従軍慰安婦支援運動がアジア各地に広がり始めた1990年代初め、筆者はフィリピンに留学していた。この問題については、大戦期の歴史学者から「研究対象にはしにくい」と助言を受けていた。資料を見つけにくいという見立てが、その理由である。

フィリピンの女性人権活動家たち

 当時はミス・フィリピンから反マルコス運動に転じて投獄も経験した女性人権活動家、ネリア・サンチョさんがNGOを組織して被害者を見つける活動を始めていた。留学先とNGOが距離的に近いこともあり、日本人留学生らが通訳として参加していた。

 NGOは証言を記録し、元慰安所の場所も探した。1993年4月、最初に名乗り出たロサ・ヘンソンさんをはじめ19人、ロラ(タガログ語でおばあちゃんの意味)たちが原告となり、日本政府を相手取り謝罪と補 償をもとめる訴訟を東京地裁に起こした。最終的には46人が訴訟に参加した。裁判は最高裁判所まで続けられたが、最高裁では棄却された。

 訴訟中の1996年、アジア女性基金からの償い金、首相の手紙を受け取ったヘンソンさんは、「多くの仲間や日本の支援者は、『国家補償でないと人間としての尊厳は取り戻せない』と、私を非難しました。しかし基金を受け入れることと、裁判を続けることは矛盾しませし、妨げになるものでもありません」とアジア女性基金のサイトで、コメントが公開されている。

 フィリピン支援団体も日本政府の正式な謝罪や補償を目標としたが、ヘンソンさんのような受け取りを認め、支援も続けた。柔軟で現実的な対応だった。法定闘争には時間がかかり、勝訴の可能性が低いことも予想ができたと思う。しかし日本側の支援者の一部は訴訟で勝てない場合も、国際連帯などで日本政府の追求を続けることに 重点があったのだろう。

なぜ戦後50年になってからなのか

 なぜ戦後50年、被害者が高齢になってから運動が広がったのか――。当時、自問した。

 フィリピン側としては、マルコス独裁政権が終わり、アキノ政権(現大統領の母親)が誕生したことで、女性人権団体の活動は自由となり、フィリピン政府の協力も得やすくなっていた。女性人権団体、弁護士、キリスト教会、労働組合など国際的な連携も活発になっていた。これらが影響したのは間違いないだろう。

 第4回世界女性会議(北京)は1995年に開催されている。日本の諸団体も国内問題の運動だけではなく、

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