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米国の量的緩和政策の終了・・・その後を日本が支えるのか

齋藤進 三極経済研究所代表取締役

 「行きはよいよい 帰りはこわい」――。米国と日本の量的緩和政策の始末を考えていた時に脳裏に浮かんだ童(わらべ)うた、「通りゃんせ」の一節である。

記者会見する黒田東彦・日銀総裁=2014年10月31日午後、東京都中央区の日銀本店、北村玲奈撮影拡大記者会見する黒田東彦・日銀総裁=2014年10月31日午後、東京都中央区の日銀本店、北村玲奈撮影

 米国の連邦準備制度(中央銀行)の公開市場委員会は、10月29日(木)の政策決定会合後に公表された声明文で、先月に予告されていた量的緩和政策の第3弾の段階的な手仕舞いの完了を確認した。米国の決定を受けるかのように、日本銀行は、10月31日に、昨年4月からの量的緩和政策の延長と、マネタリーベースの積み増し額を10兆円ほど引き上げて、年間で約80兆円のペースとした。

 日本銀行の決定は、政策委員会・政策決定会合の表決が、5名が賛成、4名が反対と、黒田総裁にとっては、薄氷を踏む決定であった。政策委員会の決定が、このように大きく割れるのは、1998年に日本銀行が金融政策運営に関する独立性を与えられてから初めての事態であった。しかし、ここに、今次の日本銀行の決定の問題が現れていると言えよう。

 先ず、米国の量的緩和の経緯を振り返って見よう。

 米国の金融当局の政策金利(フェデラル・ファンド・レートの誘導目標水準)の水準は、2004年6月の1・00%から2006年6月の5・25%へと、0・25%づつ小刻みに、段階的に引き上げられていた。明らかに、徐々に金融政策を引き締めれば、その反動も大きくならないであろうとの期待に基づいていたと考えられる。

 しかし、米国の金融当局は、上記のように政策金利の引き上げ局面を完了し、1年余りも5・25%の水準に高止まりさせていた2007年7月に、『サブプライム危機』の勃発に直面した。そこで、同年9月から、政策金利を大慌てで引き下げ始めた。翌年の2008年12月には、政策金利の水準を、上限が0・25%、下限が0・00%というゼロの近傍にまで引き下げざるを得ない事態に追い込まれてしまった。

 その間に、2008年3月には、ベア・スターンズ社の破綻、同年9月にはレーマン・ブラザーズ社の破綻で、大規模な金融パニックが、米国だけではなく世界の経済・金融資本市場を揺るがせた。米国の金融当局が、政策金利の水準をゼロの近傍にまで引き下げても、金融システムは安定化しなかった。

 金融システムの破綻である1930年代初頭の大恐慌が、経済活動の大収縮、長期低迷である大不況を招いたとの反省から得られた教訓は、銀行などの決済機能を持つ金融機関が、資金繰り難による行き倒れ倒産になる事態は許容してはならないということであった。

 銀行の倒産を放置すれば、 ・・・続きを読む
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筆者

齋藤進

齋藤進(さいとう・すすむ) 三極経済研究所代表取締役

(株)三極経済研究所・代表取締役。1950年静岡県生まれ。73年京都大学経済学部卒、73年より、国際関係研究所客員研究員(台北)、76年ミシガン大学大学院経済学博士課程修了。フォード財団特別研究員、ウォールストリートで、金融機関、機関投資家、国際機関向けの独立経済コンサルタント業、クレディ・スイス銀行(東京)経済調査部長兼チーフ・エコノミストなどを経て、1990年より現職。「平成不況」の名づけ親として、多くの経済政策論文・論説を発表。著書に『平成不況脱出』(ダイヤモンド社)、『平成金配り徳政令』(講談社)など。世界の100人のTop Political Columnistにも選ばれている。 【2016年8月WEBRONZA退任】

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