トップ人事の迷走の果てに独り負け、本当の敵はキリン自身の中にあった
2014年12月27日
キリンホールディングス(HD)のトップ交代が12月22日、年末の慌ただしさの中で発表された。業績低迷に歯止めがかからないキリンは、新体制により2015年からの反転攻勢を期していく。
もっとも、今日の凋落を招いた原因にはトップ人事の相次ぐ失敗があり、実は問題の根は相当に深い。1980年代半ばまで6割のシェアをもっていたキリンは、本当に立ち直れるのか。
「責任? 当然感じている。(トップ人事は)私一人で決めた。(歴代社長の)誰にも相談をしてはいない」。三宅占二キリンHD社長(66)は交代会見後に、いつもの淡々とした口調で語った。
国内ビール類事業のシェア低下、ブラジルキリンなど海外事業の不振が続き、今年に入りキリンHDは時価総額でアサヒグループHDに抜かれ、初めて業界首位から転落した。2014年12月期の売上高でもサントリーHDに抜かれ2位に、営業利益ではアサヒとサントリーに抜かれて3位に後退する見込みだ。まさに、キリン独り負けの構図に陥っている。
今回の人事は、キリンHD社長に事業会社のキリンビールと中間持ち株会社キリンの社長である磯崎功典(よしのり)氏(61)が、キリン社長を兼務したまま就任する。三宅社長は代表権をもたない会長に退く。15年3月末の株主総会後の取締役会で正式に決まる。
また、キリンビール社長には、営業子会社であるキリンビールマーケティングの布施孝之社長(54)がキリンビールマーケティング社長を兼務したまま、15年1月1日に就任する。
この人事について、ライバル社の首脳は次のように話す。
「三宅さんがトップにいる限り、キリンの浮上はないと踏んでいた。競合3社はみな同じ思いだったろう。事実、三宅時代の5年間、キリンの迷走に助けられ我々は躍進できた。特に、“あの人事”により社長候補が消え、三宅さんは続投せざるを得ずキリンは傷口を広げた」
“あの人事”については後述するが、三宅氏の社長就任はサントリーHDとの経営統合交渉が破談した直後の2010年3月だった。統合を推進していた加藤壹康前社長が実質的に引責辞任し、副社長だった三宅氏が緊急登板した格好だった。
また、09年は第3のビール「のどごし生」のヒットなどから、キリンはアサヒを抜き9年ぶりのシェアトップに返り咲く。が、三宅社長が誕生した翌10年には再逆転され、その後アサヒの背中は遠のいていく。シェアの差は12年が1.9%、13年2.8%、そして14年上半期は一気に5.0%と開いてしまう。
キリン幹部は言う。「サントリーとの統合交渉に踏み切るなど、加藤さんは超ワンマン。そして強権を発動した。反発する者を排除し、圧力に耐えられず自ら辞めた幹部もいたほど。この結果、加藤さんの周囲は“イエスマン”ばかりとなり、その最右翼が加藤さんと同じ営業出身の三宅さんだった。三宅さんは何の実績もないのに、加藤さんの後ろをついていっただけで社長になった人。サラリーマン個人としては見事だが、会社としてはやはり問題だった」
三宅氏は07年、国内酒類事業のトップとして「キリン・ザ・ゴールド」というビールを大掛かりな広告宣伝費を投入して発売。アサヒ「スーパードライ」に対抗したものの、ヒットさせられず失敗に終わる。それでも、失脚しないばかりかキリンビール社長、キリンHD副社長と出世していく。
そして問題の人事が起きる。三宅氏が社長になって2年後の12年春先のことだ。1968年入社の加藤氏が相談役に退くのと同時に、キリンビール社長だった松沢幸一氏と、清涼飲料のキリンビバレッジ社長だった前田仁氏とを三宅氏は退任させてしまうのだ(相談役などの役職は用意されず、そのまま去った)。
二人はともに73年入社。いずれも09年に社長になっていた。松沢氏は09年にシェア首位奪還を果たし、東日本大震災の津波で被災した仙台工場を早期に復興させた立役者だった。前田氏はビール「一番搾り」や発泡酒「淡麗」、缶チューハイ「氷結」などのヒット商品開発を指揮したことで知られる。一方、三宅氏がこのときキリンビール社長に起用したのが、広報やホテル事業などを歩んできた77年入社の磯崎氏だった。
二人の実力社長がいなくなり、70年入社の三宅氏に対し、77年入社の磯崎氏との間に、“人”がいなくなってしまう。社内的な三宅氏の権力基盤は固まったものの、
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