チルコット委員会はどこまで政治責任を追及するか
2016年06月23日
7月6日、英国でイラク戦争を総括的に検証する「イラク調査委員会」(ジョン・チルコット委員長の名前から、通称「チルコット委員会」)が報告書を発表する。260万語で書かれた、膨大な書類となる見込みだ。開戦当時首相だったトニー・ブレア氏がイラクへの侵攻の決断をどこまで批判されることになるのかが注目される。英国民にとって忘れられない痛みと怒りを想起させるイラク戦争の全貌を明らかにする試みとなる。
イラク戦争開戦(2003年3月)からもう13年以上が経つ。
シリアとイラクを根城にするイスラム過激集団「イスラム国」(IS)が生まれる前のイラク、サダム・フセイン大統領が統治していた時代のイラクはずい分と昔のようにも思える。
しかし、英国民にとってはどうしても忘れられない戦争だ。百万人単位の反戦デモが発生した開戦前夜から現在に至るまで、その節々の時に何が起きたのかが鮮明に記憶に残る。
なぜ忘れられないのか?
それはジャーナリスト、ピーター・オボーンがかつて言ったように「エスタブリッシュメント(社会の支配者層)への信頼感がガラガラと崩れた」戦争だったからだ。
戦争の全貌がようやく明らかになるチルコット委員会の報告書を、開戦当時の政権関係者は恐れを持って待ち、戦死した179人の英兵の遺族を含む国民は「今度こそ、真実が解明される」と思い注目している。
検証作業の原動力となったのは国民の「ブレア政権に裏切られた」、「なぜこんなことになったのかを知りたい」という強い思いだ。メディアが国民を後押しし、解明への機運を持続させてきた。
開戦前、トニー・ブレア英首相(当時)は、ブッシュ米大統領(当時)とともに「イラクは大量破壊兵器を持っている」、「フセイン大統領による世界的な脅威がある」などを理由としてイラク侵攻を主張した。ブッシュ政権と「ともに戦う」姿勢を示した。
この時、多くの知識人が「新たな国連決議がなければ、武力攻撃は違法ではないか」、「大量破壊兵器は本当にあるのか」と指摘し、メディアもブレア政権の主張を批判的に報道した。全国各地で大規模な反戦デモが何度も発生した。
英国全体が戦争支持と反対で真っ二つに割れる中、議会で参戦決議を可決させた政府は、2003年3月20日、米国とともにバグダッドへの空爆を開始する。
英米軍を中心とした多国籍軍の圧倒的な軍事力により、フセイン政権は間もなくして倒れた。しかし、大量破壊兵器は見つからなかった。
独裁政権を倒した後に平和で民主的なイラクができるーそんな米英側の青写真は、その後の数年で見事に打ち砕かれた。イラクを占領下に置いた米国はイラク軍の解体、フセイン政権時代の与党バース党の解党を進めて党幹部に対する公職追放を実施したが、職を失い、怒り、武装したスンニ派とシーア派の内乱が発生するようになった。
イラクはアルカイダなどのテロ組織の温床ともなった。ISの前身「イラク・イスラーム国」がイラク中部ファルージャに生まれている。これにアルカイダ系戦闘員が合流して、現在のISになったと言われている。
開戦から13年後のいま、バグダッドでは連日、シーア派を標的としたIS(スンニ派)による爆弾テロが続発している。イラクは開戦前よりも治安が不安定な国になってしまった。
2011年12月の米軍完全撤退時までに、米軍兵士は約4500人、イラクの民間人は少なく見積もっても10数万人が亡くなった―調査によって民間の死亡者は50万人から60万人規模ともいわれている。
「違法な」戦争に加担してしまったこと、多くの死者が出たこと、現在のイラクの惨状-そのどれもが英国民にとっては痛みであり、どうにも納得がいかないことである。
英国を戦争に向かわせたブレア元首相、国会で参戦動議に賛成した議員たち、侵攻を可能にするためにイラクの脅威についての報告書を作った情報部の幹部たち、新たな国連安保理決議がなければ戦争は違法とする法的立場を途中から変えた法務長官――支配層に「裏切られた」と思うのは先のジャーナリスト、オボーンだけではなかった。
英国ではイラク戦争についての大掛かりな検証作業が数回にわたって行われてきた。
税金を使った一連の検証作業が行われてきたのには、国民の側に「嘘の諜報情報で戦争に加担させられた」ことへの無念さと怒りが存在したことが大きい。
しかし、チルコット委員会に至るまでの道は長かった。
03年の下院外務委員会などによる検証では、大量破壊兵器保有についての情報が確かだったかどうか、侵攻が合法だったかどうかが問われたものの、「イラクの脅威は確かに存在した」と結論付け、国民の期待に十分に添うことができなかった。
しかし、この年の5月末、BBCラジオのある報道が大きな政治スキャンダルを発生させる。02年9月に政府は「イラクが45分以内に大量破壊兵器の実戦配備が可能」とする報告書を出していた。BBCは、この報告書が「イラクの脅威を誇張していた」と報道し、「45分の脅威」の信憑性を問題視した。記者は第1報で「嘘と知りながら、情報を入れた」とうっかり口を滑らせた(後、訂正)。ブレア首相には「嘘つきブレア」というあだ名がついた。
政府は「誇張していたのではない」と証明するためにやっきとなり、政府とメディア(BBC)の対決となった。
外務委員会が調査を開始し、証人として呼ばれた一人が国防省顧問のデービッド・ケリー博士だった。召喚の数日後、ケリー博士が遺体で発見された。後になって、博士が先のBBC報道の重要な情報源だったことが判明する。
博士の死をめぐる事実関係を解明するために行われたのが「ハットン調査委員会」だ。ブレア首相やほかの政治家、諜報情報組織の幹部、BBC関係者など70人が召喚され、その模様は動画中継された。
この時、正式には博士の死をめぐる調査委員会ではあったが、多くの人がいかに侵攻までの過程が違法であったのか、いかにブレア政権が「嘘をついて」国民を戦争に連れて行ったのかが解明されると思っていた。ところが、04年1月に発表された報告書は、博士の死を自殺と結論づけたのは妥当ではあったものの、BBCの報道は誤報とし、政府が情報を誇張した事実はないとしたために、大きな衝撃となった。
全国紙インディペンデントは1面に一言、「ホワイト・ウォッシュ(ごまかし)」と書いた。ハットン委員会が政府の嘘をごまかしたーそんなメッセージだった。
BBCの経営陣トップ、二人は引責辞任をした。トップ二人が一度に去るのは前代未聞である。「政権が諜報情報を誇張していた」とするラジオ報道を弁護し続けてきたグレッグ・ダイク会長はそのうちの一人だったが、BBC職員らが制作拠点のBBCテレビセンターの前で「ダイクを戻せ」というプラカードを持って抗議デモを行った。
大々的な調査を行ったハットン委員会でも「ブレア氏の嘘」は証明できなかった。しかし、このときまでに開戦前にあると言われた大量破壊兵器はまだ見つかっていなかった。やはり戦前の政府の諜報情報は間違っていたのではないか?
国民のブレア政権への不満感、「嘘をつかれたのではないか」という疑念はハットン報告書が出たことで、収まるどころかむしろ強くなった。とうとう諜報情報の正確さを問う調査会(「バトラー委員会」)がハットン員会の報告書が出た翌月から検証を始めることになった。
5カ月後の04年7月、バトラー委員会の報告書が出た。その結論は、戦争反対派にとってはひとまず溜飲が下がるものだった。
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