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東京裁判史観を乗り越える

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

東京裁判は法的な意味での裁判ではなかった

東京裁判の法廷=1948年東京裁判の法廷=1948年

 1945年8月は広島・長崎に原爆が投下され、長崎被爆から6日後の8月15日終戦を迎えた。そんな経緯もあって8月は日米戦争に関するマスメディアの報道や特集が多く見られた。こうした中で東京裁判についての特集もNHK等で放映されている。

 しかし東京裁判は法的な意味での裁判ではなかったと言えるのだろう。東京裁判で被告となり有罪判決を受けたのは25人。このほか、未決拘留中に死亡した松岡洋右元外相、永野修身元海軍大臣と、梅毒による精神障害が認められて起訴免除となった大川周明を含めて28人が起訴されたのだった。

 25人のうち東条英機元内閣総理大臣・板垣征四郎元陸軍大臣・木村平太郎元陸軍次官・土肥原賢二元第12方面軍司令官・武藤章元第14方面(フィリピン)軍参謀議長・松井石根元中支那方面軍司令官・広田弘毅元内閣総理大臣は絞首刑(死刑)に処されたのだった。死刑は1948年12月23日に執行されたのだが、くしくも12月23日は今上天皇(明仁)の誕生日でもあった。

 終身刑は荒木貞夫元文部大臣(陸軍大将)、賀屋興宣元大蔵大臣、嶋田繁太郎元海軍大臣、橋本欣五郎元陸軍大佐(ファシズム運動を主導)、梅津美治郎元陸軍参謀総長、木戸幸一元内大臣、白鳥敏夫元外務官僚(三国同盟を推進)、畑俊六元元帥陸軍大将(中国戦線を指揮)、大島浩元駐ドイツ大使(三国同盟の立役者)、小磯国昭元朝鮮総督(陸軍大将)、鈴木貞一元企画院総裁(陸軍中将・東条英機の側近)、平沼騏一郎(元内閣総理大臣)、岡敬純(元海軍次官・親独派・対米開戦を強硬に主張)、佐藤賢了(支那派遣軍総参謀副長・陸軍中将)、南次郎(元朝鮮総督・陸軍大将)、星野直樹(元内閣書記官長・元満州国務院総務長官)だった。その他、重光葵(元外務大臣)が禁固7年、東郷茂徳(元外務大臣)が禁固27年の刑を受けたのだった。

 絞首刑という極刑を言い渡された7人を含めて、彼らは当時の日本の法律、あるいは国際法に違反した訳ではない。裁判にあたっては、「平和対する罪」、「人道に対する罪」、「戦争犯罪」等と言う罪が一方的に、しかも事後的に定められ、それによって被告たちは裁かれたのだった。これは日本を裁くためだけにつくられた「裁判所条例(チャーター)」であり、その時点での法律によって裁くという通常の裁判の常識から著しく離反したものであった。

 要するに、東京裁判は裁判という形式はとっているものの、裁判等と呼べた代物ではなく、11の戦勝国(アメリカ・イギリス・オランダ・フランス・ソ連・中華民国・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・インド・フィリピン)による敗戦国日本に対する「報復」であったといえるのだろう。

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