メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

英公文書が伝える社会の変容(3)

警察の人種差別を明るみにした「マングローブの9人」裁判

小林恭子 在英ジャーナリスト

 1948年、英国は第2次世界大戦後の労働力不足を補うために、当時は植民地だった西インド諸島から若者たちを招いた。希望に胸を膨らませてやって来た若者たちは、英社会の現実と格闘しながら生活を築き上げていった。歴史の一こまを垣間見ることが出来る文書の数々を、英国立公文書館で開いてみた。

英公文書が伝える社会の変容(1)

英公文書が伝える社会の変容(2)

***

 英国立公文書館の保管書庫に、「MEPO31・21」と題されたファイルがある。「MEPO」は「Metropolitan Police(ロンドン警視庁)」を指す。ある事件の捜査ファイルだ。

 閲覧を請求してみると、ずっしりと重い箱を渡された。箱を開けると、警視庁の捜査報告書、紙面が色あせた様々な新聞の切り抜き、写真などで一杯だ。一連の書類は1970年から71年まで続いた「マングローブ事件」に関わるファイルだった。数多い切り抜きから判断すると、当時大きな注目の的になっていたことが分かる。

カリブ海系移民の到来

 マングローブ事件の名称は、フランク・クリッチロウ(1932~2010年)がロンドンのノッティングヒルにオープンした「マングローブ・レストラン」から来ている。

 カリブ海に浮かぶトリニダード島。クリッチロウはこの島と周辺の諸島で構成されるトリニダード・トバゴ共和国の首都ポートオブスペインで育った。1953年6月、蒸気船コロンビ号に乗って英国にやって来た。

 その5年前から、英政府は第2次世界大戦後の労働力不足を補うために多くの有色人種の移民を受け入れてきた。ウインドラッシュ号に乗って最初にやってきた移民は約1000人。そのほとんどがカリブ諸島出身だった。

 この年(1948年)、英国は旧植民地となる英連邦諸国に住む人全員に英国の市民権を与えた。カリブ海周辺出身の黒人移民の到来によって、英国は戦後の多文化主義社会に変容してゆく。

 50年代に入って、活路を求めて渡英した若者の1人が21歳のクリッチロウだ。2010年に78歳で亡くなるが、警察の迫害に抵抗した黒人運動の中心人物としてその名を残す。

クリッチロウの人生

拡大ガーディアン紙に掲載された、クリッチロウの訃報記事(2010年9月26日、ウェブサイトから)
 クリッチロウは当初ロンドン・パディントンに住み国鉄に勤めたが、渡英から3年後に音楽バンドを作り、一定の成功を収めた。

 この時の資金を使って、西パディントンのウエスト・パークに「エル・リオ・カフェ」をオープン。カフェは黒人住民のたまり場として人気を博してゆく。カリブ海からロンドンに着いた若者たちが必ず訪れるのが、このカフェだった。

 カフェをオープンした1959年のロンドンは、どのような状況にあったのか。

 前年の夏に発生した、白人貧困層の若者たちが移民の黒人住民を攻撃した「ノッティングヒル暴動事件」の記憶がまだ生々しい頃である。

 ノッティングヒルと言えば、書店主とハリウッド女優の恋愛を描いた映画『ノッティングヒルの恋人』(1999年)のせいもあって洒落た街の印象が強いが、当時は貧困層が中心のスラム街の1つだった。

 この近辺には、1950年代までにトリニダード・トバゴやバルバドスなどカリブ海地域出身の移民たちが多く住むようになり、独自の地域社会が形成されていた。

ノッティングヒル暴動事件

 黒人住民に対する敵意があらわになったことで英国全体を驚愕させた暴動事件が起きたのは、1958年8月末。

 約400人の「テディボーイ」と呼ばれる白人貧困層の若者たちが、ノッティングヒルやノッティングデールに住む移民の「黒人狩り」を開始した。手に持っていたのは鉄製の棒、肉包丁、重しを付けた革製のベルト。通りにいた黒人住民を追いかけ、黒人住民が住む家には火炎瓶を投げ込んだ。

 現場に駆け付けた警察官に白人の若者は「黒人のやつら全員を殺してやる」と叫んでいる。もう1人はこう言った。「邪魔するな……俺たちがかたをつけてやる」。

 暴動が沈静化したのは9月上旬、逮捕者は140人に上った。そのほとんどが白人だった。

 翌年1月、黒人向け新聞「ウェスト・インディアン・ガゼット」の編集長でトリニダード出身のクローディア・ジョーンズが中心となって、「カリブ海のフェスティバル」が開催された。これが後に、毎年夏に開催される「ノッティングヒル・カーニバル」につながってゆく。

サミー・デービス・ジュニアも訪れたカフェ

 クリッチロウのカフェは黒人住民のたまり場としてだけではなく、白人のアート系の若者たち、流行に目ざとい人々をも吸い寄せるようになった。

 ノッティングヒルが英国の黒人文化のメッカになってゆく中、クリッチロウは今度は「マングローブ」という名前のレストランを1968年にオープンした。

 カリブ海の料理が提供され、地元住民ばかりか国内外の著名人もやって来た。英女優バネッサ・レッドグレイプ、テレビの人気探偵ドラマ「アベンジャー」の出演者、それに米国から歌手マービン・ゲイ、サミー・デービス・ジュニア、ダイアナ・ロスやシュープリームス。「中に入り切れない客が店の外で車の中で待っていたものさ」と生前、クリッチロウは語っている。

 リベラルな反体制文化、急進的だがどこか粋な感じがする雰囲気を持つのに、その一方でありふれた日常の一場面でもあり、居心地が良かった。

 マングローブは、どう見ても麻薬常習者が集う危険な場所ではなかったが、地元警察は何とかしてレストランを閉鎖させようと必死のように見えた。

 1969年1月から70年7月までに12回、警察は強制捜査を行った。麻薬は見つからなかったが、午後11時以降に店内で踊っている客がいた、食事をまだ出していたなどの理由で罰金を科せられた。

 1970年8月9日、クリッチロウは有志とともに警察の干渉に対する抗議デモを実行することにした。行進が行われることを知った警察側は700人以上の警官を動員して監視にあたらせた。警視庁公安課の黒人運動対策室が機動体制に入った。

 英公文書館のマングローブ事件ファイルには、この時の抗議デモの様子と警察官の対応を示す写真が何枚も入っている。

 当日、約150人の有志が ・・・続きを読む
(残り:約2471文字/本文:約5016文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
Journalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

小林恭子

小林恭子(こばやし・ぎんこ) 在英ジャーナリスト

秋田県生まれ。1981年、成城大学文芸学部芸術学科卒業(映画専攻)。外資系金融機関勤務後、「デイリー・ヨミウリ」(現「ジャパン・ニューズ」)記者・編集者を経て、2002年に渡英。英国や欧州のメディア事情や政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。「新聞研究」(日本新聞協会)、「Galac」(放送批評懇談会)、「メディア展望』(新聞通信調査会)などにメディア評を連載。著書に『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス(新書)』(共著、洋泉社)、『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)。

小林恭子の新着記事

もっと見る