西部邁氏を悼む
2018年09月02日
西部邁が2018年1月21日、「自分の意思による自殺」と明記した遺言を警察の捜査関係者に残して自裁した。彼は自裁を決意した後の1月15日、「保守の遺言」という書物を書き終え、その「あとがき」で次のように述べている。
「なお自分の息子一明夫妻をはじめとして、昔同じ屋根の下で暮らした兄正孝の夫婦・妹倫子の夫婦・亡妹容子の夫そして妹千鶴子の夫婦、西部むつ子の皆さんにも、さらに亡妻の姉・弟・妹たちにも僕流の『生き方としての死に方』に同意はおろか理解もしてもらえないとわきまえつつも、このあとがきの場を借りてグッドバイそしてグッドラックといわせていただきたい。」(本書は2018年2月27日、平凡社から出版されている)
筆者も西部邁とは30年近いつきあいである。彼が1994年から発行している「発言者」の第1号に寄稿しているので、少なくとも1990年代初めには知り合っている。彼とはしばしば会っていた、いや、会っていたというよりは一緒に飲んでいたと言った方がいいのだろう。新宿のたしか「ブラ」というバーで1年に数回は飲み、かつ、様々な議論をしていた。彼は舌鋒鋭く議論を進めていたが、同席者に気配りもし、他方での優しさを時として見せていた。
西部は東京大学教養学部の教授だったが、中沢新一(当時、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手)を東京大学助教授に推薦し教授会で否決されると、これに抗議して、1988年3月、東京大学を辞職している。辞職後は鈴鹿国際大学客員教授・秀明大学教授・学頭等を歴任している。又、テレビ朝日系列の「朝まで生テレビ」に出演し、保守派論者として多くの人に知られるようになる。おそらく、筆者が始めて西部と会ったのは、このテレビ番組だったのだろう。彼は1995年から2005年まで、真正保守思想を標榜する月刊誌「発言者」を刊行しているが、財政上の理由で廃刊、その後、後継の月刊誌「表現者」の顧問を務めていた。
西部は東京西麻布の表通りにある土地の所有者になり、イタリアン・レストラン「ゼフィーロ」を長男の西部一明に経営させていた。著者も西部邁とともにしばしば「ゼフィーロ」を訪れた記憶がある。長男の店を大切にしていたのだが、同店は2007年4月に営業を終了している。
2014年3月には妻が死去。西部は妻満智子が重症の癌に犯されていることを知った2008年に「妻と僕」(飛鳥新社・2008年7月)という著者を出版している。「『手遅れだそうだ』と僕は妻の耳元に囁いた。」と彼は記している。おそらく、妻の死をきっかけに西部邁は自死を考えるようになったのだろう。彼は同書の中で妻のことを次のように述べている。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください