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英国で死刑について考える

賛成?反対?議論の糸口を探る、日本で必要な死刑制度の情報公開

小林恭子 在英ジャーナリスト

 7月、オウム真理教の元教祖や幹部13人に対し、死刑が執行された。欧州連合(EU)が執行を非難する声明を出したが、日本国内では「内政干渉」として反発する意見がネット上で散見された。英国での死刑制度廃止までの過程を振り返りながら、維持派と反対派の理由、今後の議論の糸口を考えてみたい。

 筆者が住む英国で最後に死刑が執行されたのは、1964年。半世紀以上にわたって死刑という選択肢を持たない国にいると、同じく先進国の1つである日本での死刑執行は衝撃以外の何物でもない。しかも、二ケタ台の執行だ。新たな死によって、一体何が達成できるのかと問いたい思いにかられた。

 死刑執行から間もなくして日本に住む母に電話をすると、今回の死刑執行が話の中に出てきた。母は「そうしないと、遺族の気持ちの収まりがつかない」という。意見を求めたわけではないのだが、すぐに思い浮かんだのが遺族のことだったのだろう。

 「遺族や犠牲者の感情に報いる」ために死刑という形での懲罰が下ることに対し筆者は違和感を持つが、改めて死刑制度の賛成・反対の両者の意見を整理し、考えてみたいと思った。

 以下では、戦争での殺害行為は対象とせず、罪を犯した者に死刑という形で極刑を与える行為を取り上げる。

死刑制度のこれまでと廃止に向けた世界的な流れ

 犯罪者に対し、死に至る極刑を下す行為は大昔から行われてきたと言ってよいだろう。

 英国・イングランド地方では、16世紀ごろまでは国家反逆罪、殺人、強盗、レイプ、放火などの「重大犯罪」を犯した者に死刑が科せられたが、1720年代以降、死刑に当たる犯罪の種類が大幅に拡大され、貨幣の偽造、横領、教会への攻撃を含む200前後の罪名を含むようになった。

 死刑研究家リチャード・クラーク氏が運営するウェブサイト「極刑UK」によると、欧州で死刑制度改革の機運が盛り上がるのは1850年代だ。

 イタリアの法学者チェーゼレ・ベッカリーア、フランスの哲学者ボルテール(フランソワ=マリー・アルエ)、英国では哲学者ジェレミ・ベンサム、司法改革者サミュエル・ロミリーなどが先頭に立ち、「死刑は不必要に残酷、その犯罪抑止効果は過大評価されている、時として取り返しのつかない間違いが犯される」などを理由に死刑制度の改革を訴えた。死刑の代わりに、推奨したのは終身刑である。クエーカー教徒やほかの社会改革運動家、時の新聞も死刑反対の声を上げた。

 こうした動きを受けて、19世紀に死刑を停止する国が出てきた。例えば、ベネズエラでは1863年に憲法で完全廃止とし、ポルトガルも1867年に廃止。米国で殺人罪で有罪となった人への死刑が廃止されたのはミシガン州が最初であった(1847年)。

 英国では、1950年代に発生した冤罪事件をきっかけとして国民的議論が高まり、誤審の危険性と死刑の不可逆性が問題視されるようになった。1965年、5年間の死刑執行停止が議会で決定され、これが延長されてきた。スパイ罪、国家反逆罪、軍内部の犯罪については死刑が規定されていたが、実際に執行はされず、1998年に死刑は全面的に廃止となった。

 国際社会に目をやると、1966年、基本的人権の尊重を定めた国連の国際人権規約が採択され、89年に国連総会で死刑廃止条約が採択の運びとなった(91年に発効)。現在は、死刑廃止国が大半となっている。

 国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」によると、昨年末時点ですべての犯罪で死刑を廃止している国は106カ国、一部の例外的犯罪を除いて死刑を廃止した国が7カ国。死刑制度はあるが過去10年間執行がない国が29カ国。合計すると、事実上死刑が行われていない国は142カ国に上る。死刑制度があり、執行も行われている国は、日本や米国を含む56カ国だ。2017年1年では993人の死刑が執行されたという(死刑が実行されていても、その数が把握できない中国の数は含まれていない)。

2017年の死刑執行国のグラフ(アムネスティ・インターナショナルの報告書から)

アムネスティ・インターナショナルの「最新の死刑統計(2017)」

報告書「2017 年の 死刑判決と死刑執行」

 欧州連合(EU)の全28加盟国の中で、死刑制度が維持されている国はない。EU基本条約には「何人も死刑に処されてはならない」という規定があり、死刑廃止はEUの加盟条件となっている。EUは世界中で死刑制度が廃止されるよう、活動を続けている。

死刑制度に賛成か、反対か

 死刑制度の賛成派、反対派がそれぞれの立場をとる理由・根拠については様々な分析があるが、ここでは大まかな理由を挙げてみる。筆者は司法専門家ではないため、簡略なまとめになることをお許し願いたい。

「死刑があるべき」とする人の根拠は:

-殺害によって他人の命を奪った人の人権は喪失している(このため、処刑を行うことは正当化される)
-懲罰は犯罪に見合ったものであるべき。殺人を犯した場合、実行者も死刑にされるべき
-犯罪の抑止効果がある(処刑された人はこれ以上の罪を犯すことができない、また、ほかの人にも死刑という極刑の存在を知らしめることで極悪な犯罪の発生を予防する)
-囚人を拘束する費用が浮く
-遺族の応報感情を満たす(刑罰は過去の犯罪行為に対する応報として犯人に苦痛を与えるものだとする考え方=「応報刑論」に基づく)。

死刑反対派の根拠は:

-死刑は、生命権という人の最も基本的な人権に反する
-執行方法(薬物の注射、電気椅子での処刑、絞首刑など)が囚人に痛みを与える
-死刑によって殺害のような犯罪を予防したという調査結果はない
-冤罪の可能性がある(無実の人が処刑されてしまう)
-復讐としての処刑になり、さらに犯罪を発生させてしまう。殺害者に死刑執行をしながら、殺人が間違っていると教えることはできない。

など。

今後の議論の展開のために

 今回のオウム事件での死刑執行を機会に、日本で死刑制度を維持するままにするのか、あるいは廃止するのかについて活発な議論が行われるよう、筆者は望んでいる。

 「EUが非難しているから」ではなく、必ずしも「世界の潮流が死刑廃止の方向に流れているから」でもない。

例えどのような卑劣な罪を犯していたとしても、その犯罪の実行者の命を国家による処刑という形で奪うのかどうかについては、慎重であるべきと思うからだ。本当に「死刑執行」というやり方でいいのかどうかを何度でも問う機会があった方がよいと筆者は思う。

 死刑制度の是非を議論する際に、いくつか留意しておきたい要素を挙げてみる。

 まず、外国人・組織だけが死刑廃止を訴えているのではない、という点だ。

 日本弁護士連合会(日弁連)が死刑廃止を訴えて来たことをご存じだろうか。2014年には「死刑廃止についてもっと議論してみましょう」というパンフレットを発行し、なぜ廃止を提唱しているのかを説明している。

 パンフレットの中で、日弁連は死刑は「かけがえのない生命を奪う非人道的な刑罰」とし、絞首刑で命を落とす死刑囚の様子をイラスト付きで伝えている。

「死刑廃止についてもっと議論してみましょう」(日弁連)

 また、「死刑制度の存続は世論調査で国民の圧倒的な支持を受けている」という理由で制度の存続を支持したり、「世論には逆らえない」、「仕方ない」という人もいたりするのだが、

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