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日本映画界を支え続けた森田芳光

松谷創一郎

松谷創一郎 ライター、リサーチャー

 61歳の若さで映画監督の森田芳光が亡くなった。数多くのヒット作を手がけ、日本映画界に多くの遺産を残して去っていってしまった。1978年の商業デビューから2012年公開の遺作まで、34年間で28本。その間、日本映画は最低迷期を迎えていた。その中で、これほどまでに継続して映画を創り続けた監督は、他にはいない。

 1950年生まれの森田監督の足跡を振り返ると、それは大きく3期に分けられる。30代だった80年代、40代だった90年代、そして50~60代だった2000年代以降だ。この3期は単なる年代の区分ではない。それぞれが、日本映画界にとっても明確な区分となる。

 80年代の日本映画界は、70年代から続く斜陽が一層進行した時代だ。撮影所システムが崩れたものの、映画会社は従来の製作・配給・興行の垂直的な繋がりを必死に維持していた。一方でこの時期は、60年代から非商業的なアートフィルムを創り続けてきたATG(日本アート・シアター・ギルド)の末期とも重なる。

 メジャーもインディペンデントも厳しい状況を突き進んでいったのが80年代だ。後期のATGは、大森一樹など自主制作出身の監督を積極的に支援してきた。1978年に『ライブイン・茅ヶ崎』で第2回PFF(ぴあ・フィルム・フェスティバル)に入賞してデビューした森田の出世作も、83年にATGが送り出した『家族ゲーム』だった。

 社会の成熟に伴い、日本でも近代家族の自明性が失われ始めたのは、70年代以降のこと。そうした家族の不安定性は、たとえば山田太一脚本のドラマ『岸辺のアルバム』(77年)や『早春スケッチブック』(83年)、大友克洋のマンガ『童夢』(83年)などでも描かれたが、『家族ゲーム』が誕生したのもほぼ同じ時期だ。

『家族ゲーム』(1983)

 これらの作品は、たとえ血縁があろうとも家族が人為的に構築された枠組みでしかないことを明らかにしてきたが、なかでも『家族ゲーム』は、とてもシニカルな視線で家族を描いた。後に、豊田利晃監督・角田光代原作の『空中庭園』(05年)や黒沢清『トウキョウソナタ』(08年)など、家族をモチーフとした傑作は多く生まれたが、これらにとっての『家族ゲーム』は、間違いなくメルクマールとなってきたはずだ。

 また、自主制作出身ではあったが、森田は早い段階からメジャー映画にも登用されてきた。『シブがき隊 ボーイズ&ガールズ』(82年)や薬師丸ひろ子主演の角川映画『メイン・テーマ』(84年)、とんねるず主演の『そろばんずく』(86年)など、ヒットメーカーとして名を馳せた。それは「流行監督宣言」をした森田の、自覚的な活動の成果だった。

『わたし出すわ』の函館ロケで、主演の小雪さんと=2008年12月、函館市内

 油の乗っていた30代後半のこの時期、森田の活動は監督だけにとどまらなかった。1988年から91年までの4年間、複数の監督によるオムニバス映画『バカヤロー!』シリーズを総指揮する。1作目では後にヒットメーカーとなる堤幸彦と中島哲也、4作目では無名だった爆笑問題・太田光を監督として抜擢した。

 この面子からもわかるように、確実に先見の明はあったのだ。しかもそれは、メジャー興行網の枠組みの中で、興行価値と若手の育成を両立させたアクロバティックな企画だ。まさにそれは、短期間で自主制作からヒットメーカーに上り詰めた森田だからこそ可能なものだった。

 森田の活躍の一方で、日本映画界の凋落はさらに続いた。90年代に入ってバブルが崩壊し、商社や飲料メーカーなどが撤退することでさらなる苦境に立たされた。スクリーン数は1993年に過去最低を記録し、観客動員は96年に日本の総人口を下回った。日本映画界の最低迷期がこの90年代中期だ。森田の活動もこの時期、若干の間隔を空ける。1992年の藤子・F・不二雄原作『未来の想い出 Last Christmas』以降、4年間監督作を発表しなくなる。この4年間とは、バブル崩壊の影響が遅れて映画界に生じた時期と重なる。

 久しぶりの監督作は、1996年の『(ハル)』だった。

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