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【2011年・日本映画産業を考える】(3)日本映画市場と“映画ムラ”

松谷創一郎 ライター、リサーチャー

●マーケットと“映画ムラ”の乖離

 今回と次回は、日本映画産業に焦点を絞って見ていく。ただ、本題に入る前にひとつ触れておきたい事例がある。

 2010年に公開されて大ヒットした『告白』は、キネマ旬報ベストテンでも日本映画2位になるなど、興行と評価の両面を兼ね備えた作品だった。しかし、一部の評論家や映画マニアから強い批判を受けたのも確かだ。そのときの批判の質は、大きく分けてふたつあった。ひとつが、原作のときも指摘された物語の倫理面について。もうひとつは、映像表現についてだ。

『告白』(主演の松たか子)

 ここで注目するのは後者だ。そのときしばしば見られたのは、「マンガみたいでリアリティがない」「映画の文法を逸脱している」「こんなのは映画ではない」といった類の意見だ。これらの言説の裏には、発言者の信じる「正しい映画」や「あるべき映画」の姿が見え隠れする。『告白』は、そうした固定的な観念を強く刺激してしまった。

 このような感情的な反発を、筆者は不思議に眺めていた。「正しい映画」や「あるべき映画」を既定するところから新しい表現など生まれてこないからだ。それなのに、なぜそんな素朴な保守反動をしてしまうのか? そして、「正しい映画」や「あるべき映画」を決めることが、果たして批評と呼べるものなのか?

 こうした状況が意味するのは、一般のファンが支えるマーケットと、評論家やマニアとの乖離だ。テレビ局の製作参加が目立つようになった2000年代以降、両者の距離はさらに拡がったと感じる。しかも、しばしばそれは「『評論家やマニア』が『一般層』を見下す」というかたちで現象してきた。そのほとんどは後者の慰撫的なものであるのと同時に、“映画ムラ”の共同性を高める「立ち位置ゲーム」的な機能しかない。それらの言説が局所的にクリシェ(決まり文句)として拡がり、視野を狭めることに繋がっている。

 筆者には、そうしたポジショントークは極めて不思議なものに映る。なぜなら、隣接他領野の小説やマンガ、ゲームにおいては、これほどの素朴な争いは、現在ほとんど生じていないからだ。

 たとえばマンガの世界では、70年代にスポ根やラブコメを中心とした少年マンガ誌に対し、その実験性の乏しさに疑問を抱く集団がコミケを立ち上げた。2000年代には、マンガ評論家の伊藤剛が「(マンガは)つまらなくなった」言説を分析し、マンガの現状に批評が追いついていない事態を検証した。

 小説でも、90年代に新本格ミステリのジャンルに京極夏彦や清涼院流水が登場し、その斬新な表現が物議を醸し、2000年代には、中高生向けのライトノベルやケータイ小説のマーケットが拡大し、一部から「こんなのは小説じゃない」と批判されたこともあった。TVゲームの世界でも、CGが使われ始めた90年代中期のプレイステーションとセガサターンの発売から数年は、『ファイナル・ファンタジーVII』や、あるいはラディカルな飯田和敏作品などが、従来のゲームマニアから苛烈に批判された。

 こうしたことは、どのジャンルでも起きてきたことなのだ。

 しかし、それを単にマーケット(人気)と批評家やマニアの乖離として片付けていては、後者が前者に押し流されて終息するだけになってしまう。そこで必要なのは、批評家やマニアが持ちえていない一般層の読解コードを「リテラシーのないライト層の消費」として一蹴するのではなく、まずはその良し悪しの判断を留保したうえで、映画状況を精緻に検証していくことだろう。

 つまり、その分断がなぜ生じてしまっているかを、立ち位置ゲームなどに拘泥することなく見ていくことこそが必要なのだ。このとき映画産業は、その乖離に対してのひとつの道筋を照らすことに繋がるはずだ。

●「マンガの国」の映画状況

 詳細を見ていく前に、まずは近年のトレンドを確認しておこう。2011年も日本映画が外国映画の観客動員を上回った。これは4年連続のことだ。こうした日本映画人気は、21年ぶりにシェアが逆転した2006年から続いている。その人気を支えてきたのは、アニメとテレビ局だ。

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