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麻原彰晃こそ、オウム事件の中心人物だ――「NHKスペシャル オウム真理教」を見て (下) <絶対的他者>としての麻原、オウム関連の傑作映画、オウム的なものの拡散、大澤真幸の謬見など  

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

*麻原が「廃人化」して何も語ら(語れ?)ない、という点に関して、もとより彼は精神の狂ったインチキ教祖だったのだ、という意見もしばしば聞くが、それはどうだろうか? これもまったくの推測だが、ひょっとしたら麻原は究極の宗教者、「聖なる悪魔あるいは愚者」であって、こちら側=われわれの生きる一般社会に対して、いわば<絶対的な他者>として存在しているのではないか。

 そしてまた、現在の麻原が何か「意味」のあることを語ってしまえば、彼の「聖性」はこちら側のロジックや常識に回収されてしまうがゆえに、かれは“完黙”するしかないのではないか(詐病であれ、本当に廃人化しているのであれ)。

 誤解をおそれずに言えば、少なくとも、故・吉本隆明が書いたように、けっして麻原彰晃を低く見積もってはなるまい。――もっとも、こんなふうに考えること自体が荒唐無稽な空想かもしれぬが、この空想をさらに推しすすめれば、麻原はわれわれの社会とはまったくコミュニケーション不可能な、また何の文化的共通分母ももたない、「聖なる=法外な怪物」だということにもなろう。

 とはいえ、信者らとは対照的に、物欲・食欲・性欲という「煩悩」にまみれていた麻原は、その点ではわれわれ現代人の一つの鏡像だったのかもしれない。ちなみに、かつてオウムが集団で衆議院議員選挙に立候補したさいに(結果は全員、落選)、宣伝カーの上で歌い踊っていたオウム・シスターズなる少女たちは、AKB48をかすかに連想させはしないか。

*<絶対的な他者>を描いた映画としては、フランスのレオス・カラックス監督の『メルド』(オムニバス「TOKYO!」中の一編、2008)が、必見の超傑作である<星取り評:★★★★★+★>。このフィルムでは、マンホールから出現して銀座でさんざん狼藉(ろうぜき)を働き、東京・渋谷を手榴弾テロで血の海と化す怪人メルドは、法廷でも意味不明のことしか語らず、そんなに人間が憎いならなぜ自殺しないのか、と問う裁判官に対し、「だってわたしは生きていたいんだ、バーカ」、などと“メルド語”を使って言ってのけ、まったくのコミュニケーション不全ぶりを見せつける。あまつさえ、死刑に処せられても、なんなく生き返るのだ! なお作中には、事件当時の麻原の実写映像も挿入される(「メルド」とはフランス語で「糞」のこと)。

*今回の番組で紹介された教団の説法テープのなかに、麻原が幹部の弟子に、「信者は釣り上げるものだよ」という意味のことを、穏やかな口調で語っていた部分があったが、あれはまさしく、新約聖書のルカ伝5章10節の一部からの「引用」だろう。ルカ伝の当該箇所に書かれているのは、「これからは魚ではなく人間を取る[釣る]漁師になるのだ」と、漁師だったペテロがイエスに諭され弟子になる挿話である。つまり、いま触れたオウムの説法テープの一節にうかがえるのも、麻原の教義がさまざまな宗教テキストからの引用のパッチワーク的寄せ集めだった、という周知の事実であろう。と同時に、くだんの説法テープ中の麻原の「釣り」の喩えは、「信者を釣る・帰依させる・折伏する」と言い表しうる行為を、キリスト教に限らず、多くの宗教が布教の手法として取り入れていることをも、おのずと示唆しているだろう。麻原はむろん、それを信者獲得のノウハウとしてマニュアル化し、実践していたわけだ。少なくとも私には、そう思われる。

*かつてオウム・シンパだった宗教学者が教師をしていた、多摩ニュータウンにある某大学で私も非常勤講師をしていたのだが、オウム事件のさなかに同僚らにオウムの話題をもちかけると、

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