福嶋聡
2012年08月15日
こうして、思想誌に憲法案が掲載されることについては、大いに歓迎したいと思う。本来憲法についての議論はタブーでも何でもなく、苟(いやしく)も民主国家においてタブーであってはおかしい。
もちろん、意見は陣営によってまちまちであり、真っ向から対立するものもあるだろう。それぞれが冊子体の中に結晶し、広く読まれ、判断されたり参照されたりするのは、極めて健全なあり方だと思う。
実際、本誌「憲法構想史年表」によると、日本国憲法公布後だけで、憲法改正や新憲法草案に関する議論・提案が、64件数え上げられている。その中の一つ『私の憲法論』(1991年 徳間書店)を上梓している西部邁の元に富岡幸一郎、中島岳志、中野剛志ら保守派の論客が集う月刊誌『表現者』も、今年7月号で、「敗戦憲法を如何に改めるべきか」という特集座談会を組んでいる。
さまざまな立場からなされる「日本のあり方」についてのそうした議論が、誰でも手に取って読むことが出来る雑誌という「乗物(ヴィークル)」に載って、書店現場に集う多数の人々に自らの主張をアピールする風景は、健全かつ不可欠なものであると思う。
編集長東浩紀は、論壇誌でも経済誌でもない『思想地図β』が、具体的な政策提言や社会問題の詳細な分析については、「たいして生産的な提案はできないだろう」と謙遜(?)するが、東の元に終結した個性的な論客たちが探求する、「もっと曖昧で『文学的』な、けれどもあらゆる政策や分析の基底にあらざるをえないような、日本の新しい自己イメージ」こそ、「憲法」に不可欠なものであり、そうした役割こそ、「思想誌」に相応しいと思われる。
「新日本国憲法ゲンロン草案」の具体的な内容に少しく言及すれば、現行の「日本国憲法」を踏襲して「第一章 元首」で始まるその内容は、意外と(?)、突飛でも奇抜でも無い。「象徴元首=天皇」と「統治元首=総理」という二元制は、「平和主義」は維持しながらも自衛隊の存在を実質的に認める条文と併せて、憲法と現状の齟齬を改めるべきとする、これまでの多くの議論においてもポピュラーなものであった。
コンメンタールで「最もラディカルに変更された」とされている総理の直接選挙制にしても、目新しいものではない。
むしろ、「象徴元首/統治元首」の二元性が対応したとされる「国民/住民」の概念に、目を留めるべきであろう。具体的には、
「国民」=国内在住の日本人+海外在住の日本人
「住民」=国内在住の日本人+長期合法滞在の外国人
とされ、二つの集合の「結び」(「国内在住の日本人」はその「交わり」の部分である)を「日本国を形成する人民」とし、「国民」を総象するものが「象徴元首」、「住民」を代表する者が「統治元首」とされている。
新しい「国会」を形成する二院は、その「国民」と「住民」が錯綜する、更に複雑なものである。
「住民院」(現在の衆議院の地位を引き継ぐもの);我が国の領土内の統治権の発動に関するあらゆる決定を行う機能を有する;選挙権は住民に与え、被選挙権は国民に与える。
「国民院」(「住民院」を監視し指導する良識の府);我が国の長期的な存続と繁栄のために住民院および行政府(総理)を指導する。選挙権は外国に居住する者も含め、あらゆる「国民」に与えられる。幅広く世界の賢哲を集めるとの考えから、被選挙権には制限を可能な限り撤廃して、国籍要件のみならず住民要件すら求めない。
特に、「国民院」の規定が、ユニークと言えよう。被選挙権に「国籍要件のみならず住民要件すら求めない」ということは、日本に住んだことのない外国籍の人でも、日本の「長期的な存続と繁栄のために住民院および行政府(総理)を指導する」に相応しい「賢哲」であれば、どんどん迎えようという訳である。
「国際化時代」における「国際社会の中の日本」を大いに意識すべし、ということであろう。根底には、「日本=単一民族国家」思想への強い疑念もある。その動機については、大いに共感、賛同する。が、「賢哲」という表現に、良くも悪くも
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