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大傑作『プロメテウス』は見逃せない!!(下)――<リメイク>ならぬ<リブート>というコンセプトについて

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 本作についての芝山幹郎氏の、「人類の起源がどうのといわれても、末梢神経刺激の先行は否めない。派手な化粧箱の内部は意外に平板で薄暗かった」(「週刊文春」8月30日号・映画欄)という寸評は、とうてい承服できない。

 なぜ映画を<即物的>に見ることを避け、「物語」や「テーマ」ばかりを過剰に求めるのか。それに、随所に「謎」が見え隠れするにせよ、本作は破たんなく「物語」を語りきっているではないか。

 また、8月24日付「朝日新聞」夕刊で北小路隆志氏は、地球から人類の創造主発見のために飛び立った宇宙船の名が、人類に火をもたらした罰として過酷な責苦を受けたギリシャ神話の巨人神族、プロメテウスと同じである点に着目し、エリザベスらを見舞う惨劇を、人類の技術文明の発達が支払った大きな代償であると「解釈」する。

 さらに、それとどう関わるのかが不明だが、氏は次のように言う。「生きる目的は何か、死後の世界は存在するのか……といった問いは僕らにとって宿命的なもので、ゆえに物語の豊かな鉱脈であり続ける。ささやかな“自分探し”から本作のようなスケールアップされた例に到るまで……」と。

 要するに北小路氏は、エリザベスらは“自分探し”、ないしは“自己探求”のために未知の惑星に行くのだ、と言うのだが、私の「解釈」はちょっと違う。――むしろ、人類の起源を探るべくエリザベスらが惑星に行ったのは、“自分探し”ならぬ“他人(他者)探し”のためだったと思う(別の思惑で惑星に行ったウェイランドやウィッカーズにせよ、結局はそうだろう)。

 つまりエリザベスら乗組員らは、アンドロイドのデヴィッドまで含めて、自我や人生の目的や職業的アイデンティティがすでに確立されているキャラクター、すなわち“生きる目的”や“自分を探す”必要などない者たちだ。

 そして当初の予想に反して、彼、彼女らが惑星で遭遇するのは、いわば“荒ぶる”<絶対的な他者>、すなわち人類の創造主である凶暴な巨人や、巨人が創造した異形の化け物たちである(「天上から火を盗んだために罰せられるプロメテウスは、まずは自らが作った生物兵器によって滅亡の危機に瀕している“エンジニア”自身である、という「解釈」も可能だ)。

 しかし、それはそれとして、北小路氏は本作から「教訓」や「メッセージ」を読みとることに終始している。願わくば、本作の最大の肝である、巨人、クリーチャー、舞台装置などの精妙無比な造形性、意外性に満ち満ちた物語構成の卓抜さに、もう少し敏感であってほしかった(本作を文明批評の教材にしてしまうのは、つまらないことだ)。

 なお、物語の化け方(意外な展開)に関していえば、主人公らが、最初に期待し思い描いていた世界とは真逆の、想像を絶する地獄を体験するという展開、つまり<主人公らの期待が大きく裏切られる>というプロットこそ、本作の狙いのひとつだったと、リドリー・スコット自身言っている。

 こうした物語構成は、アメリカの田舎町のうぶな若者が、ベトナムの戦場で想像を超えた凄惨な奈落を体験するという、マイケル・チミノの傑作『ディア・ハンター』(1978)のそれと、基本的には同形である。

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 ちなみに、随所で物語における「なぜ?」の説明を大胆に無視した『プロメテウス』の作風には、どこか、たっぷりと製作費をかけた『地獄の警備員』(黒沢清、1991)、といった感じがある。あの低予算傑作ホラーでも、元相撲取りの「無動機」連続殺人が、恐るべき強度で描破されていた。

 また本作は、その“突き抜けた荒唐無稽さ”(むろん最大級の賛辞)において、スピルバーグ『宇宙戦争』(2005)や松本人志『大日本人』(2007)を連想させもする(かりに本作のストーリーがムチャだとしても、ムチャな話をムチャを承知で語り倒すのも、もとより映画力の一つではなかったか。マキノ雅弘然り、ルイス・ブニュエル然り、鈴木清順然り……)。

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 『プロメテウス』は、前記『ブレードランナー』とならぶリドリー・スコットの傑作SF『エイリアン』(1979)の、リメイクならぬ“リブート”だといえる。映画評論家・矢崎由紀子氏によれば、“リブート”とは

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