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【2012年 本 ベスト5】 終わりの来ないことを希った作品

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

 今年読んだ本の中で今も圧倒的に印象が強いのは、既にWEBRONZAでもご紹介した『ジョルダーノ・ブルーノの哲学――生の多様性へ』(岡本源太著、月曜社)。詳細は、http://astand.asahi.com/magazine/wrculture/2012071000020.htmlでお読みいただければ幸いである。

 教会に逆らって地動説を支持し1600年に火炙りにされたというくらいの認識しか無かったジョルダーノ・ブルーノの哲学が、かくもダイナミックで豊饒かつ絢爛な思考であったかと、若き俊英のなめらかな文章を通して教えられ、読書の醍醐味を存分に味わったことを、改めてここに記しておきたい(http://www.junkudo.co.jp/fair.jsp?fairid=125 ベスト5それぞれの本について、ジュンク堂書店HP上ブックフェアのURLをご案内します)。

 2011年の東日本大震災、福島第一原発事故を踏まえた脱原発の動きにも、政府や電力会社の対応はどんどん玉虫色になり、おそらくは年末の総選挙→政権交代を結果する大きな要因の一つとなった。原発関連本も多く出版されたが、決め手になるような展望は開かれていない。

 そんな中、「原子力ムラ」の人々の無責任な言説の数々を、(自らも東大教授でありながら)「東大話法」と総括して果敢に糾弾した、安冨歩の『原発危機と「東大話法」――傍観者の論理・欺瞞の言語』(明石書店)が話題を呼んだ。

 「事故の時どうなるかというのは想定したシナリオに全部依存します」「専門家になればなるほど、そんな格納容器が壊れるなんて思えないんですね」「結局自分があるようでいて実はないのですから、事故があったときに本当に自分の責任を自覚することになかなかなっていかない」などと無責任極まりない言葉を吐く一方、大所高所からの上から目線で「我が国は……しなければなりません」などとのたまう。それが「東大話法」である。

 彼らは、原子力の「平和利用」の推進という「国策」=「ご公儀」の配分する「役」を担うことで、自らの立場を守っているだけであり、東大の原子力関係者の「傍観者」的態度は目も眩むほどの水準に達していて、自分たちに責任があるという意識が全く欠落している、と安冨は断ずる。

 続編にあたる『幻影からの脱出――原発危機と東大話法を越えて』(明石書店)では、なぜ日本が、そうした「原子力ムラ」の人々が幅をきかせる世界有数の原子力発電国であるのか、その政治的背景が、明らかにされる。所謂「55年体制」の対立構造をなす「保守/革新」は、双方とも都会の知識人を中心とする同じ穴の体制派である。むしろ自民党から出た田中角栄が、田舎の非知識人によって構成される非体制派を率いて体制派と対峙したと言えるが、体制派にとってはアメリカとの関係や安全保障の面で、非体制派にとっては田舎にお金を落としてくれるという点で、いずれにしても原発は有意義だったのだ。

 福島第一原発壊滅という事態を受けてなお、「東大話法」は言う。「原子力発電所は、日本みたいに資源のない国では必要」と。それは、原発が、日本が最も誇るべき豊富なエントロピー処理資源と、日本という国のブランドイメージを何よりも破壊しているという事実に気がつかない、救いがたい欺瞞だと、安冨は糾弾する。

 「東大話法」や「原子力ムラ」への安冨の容赦ない斬り込みは、読んでいて痛快、かつ論理は明快で、姿勢はいささかもブレない。

 安冨が2著の間に上梓した『生きるための論語』(ちくま新書)も、眼から鱗が落ちるような、全く新しい「論語」の読み方が新鮮で、オススメ(http://www.junkudo.co.jp/fair.jsp?fairid=81)。

 民主党政権では既定路線のように教育のIT化が予告されていたが、自民党政権に代わってどうなるか。いずれにしても、まだまだ議論が不足していると思う。私見では教科書のデジタル化は「紙の本」にとって大きな危機であるにもかかわらず、当事者であるはずの出版界からもなかなか声が上がらないし、本も出て来ない。

 そんな中、『超デジタル時代の「学び」――よいかげんな知の復権をめざして』(渡部信一著、新曜社)は、薄っぺらなIT教育論を超えて、最先端のデジタル技術がどのような形でむしろ伝統的な「学び」を支援しえるかを具体的に報告していて、とても興味深かった。

 一般に、デジタル技術は、あいまいなものや複雑なもの、状況を切り捨てることによって「きちんとした知」をつくり上げ、効率的な伝達を目指す。一方、現実を生き抜くためには、「きちんとした知」(だけ)ではなく、「よいかげんな知」が不可欠である。「よいかげんな知」なくして、「生きる力」は備わらない。 

 そのことを踏まえたうえでなお、渡部は決してデジタル技術を否定しない。進歩を遂げたデジタル技術は「超デジタル」へとステージを上げ、複雑であいまいな現実を複雑であいまいなままに捉える。そして、これまでのデジタル技術が得意とした「きちんとした知」の効率的な「学習」を「超え」て、「よいかげんな知」の「学び」を支援できるようになったことを確信するのだ。 

 そうした確信のもと、渡部が「超デジタル」技術の実践の場として選んだのが、一見デジタル技術の対極にある伝統芸能の伝承の場である。モーションキャプチャや、「師匠の思い」をデジタル化せんとするCG作成は、伝統芸能を担う人びとにも認められていく。内弟子制度の「しみ込み型」の「学び」をも、「超デジタル」技術は支援できる段階に達したのだ。

 「超デジタル」技術がその段階に至ると、むしろ伝統芸能の継承における「学び」のあり方が再びクローズアップされてくるのが、面白い。現在謳われている、内実をともなわない「IT教育」推進論とは、深みが違う。実際私は、この本に触発されて近世の寺子屋や私塾での「学び」の可能性に興味を抱き、『「学び」の復権――模倣と習熟』(辻本雅史著、岩波現代文庫)や、『思想史家が読む論語――「学び」の復権』(子安宣邦著、岩波書店)に手を伸ばした(http://www.junkudo.co.jp/fair.jsp?fairid=124&preview=1)。

 今年下半期に出た本で先ず面白く読んだのが、

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