メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

「オルタナティブ」を希求するネグリ=ハートの『コモンウェルス』

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

 ネグリ=ハートの『〈帝国〉── グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(2003年、以文社、原著2000年)は、書店の人文書売場に一つの劃期をもたらした本である。それは、『〈帝国〉』が、人文書売場の書棚の分類・構成・並びに、変化を与えたからである。「劃期をもたらす」本は、強力な磁場を持ち、関連商品を引きつけ、まるで自らの領土を押し拡げるかのように、書棚の絵柄を変えてしまう。

 2005年にはその続編である『マルチチュード――<帝国>時代の戦争と民主主義』が翻訳され(上・下、NHKブックス、原著2004年)、2012年12月おわりに、〈帝国〉三部作の完結篇にあたる『コモンウェルス――<帝国>を超える革命論』(上・下、NHKブックス、原著2009年)が刊行された。

 『〈帝国〉』が、本体価格5600円、A5判592頁という大著であるにもかかわらず、「劃期をもたらした」と言えるほどに読者に受け入れられ、書店の人文書売場に久々の「活気をもたらした」のは、「オルタナティブ=別の選択肢」を前面に出して、それを飽くことなく追い求めているからだ。

 「オルタナティブ=別の選択肢」は、現代社会への閉塞感・危機感に射した希望の光であった。かつてマルクスが提唱したように、「世界を解釈する」哲学ではなく、「世界を変革する」哲学を展開したからである。

 20世紀の終わり、グローバリゼーションの進展と共産主義諸国の崩壊や変容を経て、「資本主義の勝利」が一方的に宣言され変革の方向や可能性そのものさえ見えなくなる。科学主義が跋扈(ばっこ)して、哲学・思想の有効性が疑われ、書店における人文書売場の存在感がどんどん薄まっていった。

 そんな時、再度光を与えてくれたのが、ネグリ=ハートが掲げる「オルタナティブ」だったのだ。人文書は、「オルタナティブ」の提示・提案という使命を、自らの存在理由として、改めて獲得したのである。

 そして21世紀の最初の10年間、〈帝国〉三部作の刊行と並行するように、世界は大きく変動していった。アメリカの単独行動主義と新自由経済の構築の失敗は、ネグリ=ハートが「〈帝国〉はアメリカではない」と繰り返したことを実証したし、リーマンショックをはじめとする世界大の金融破綻は、「資本は破滅への途上にある;資本は自分以外の者=まず地球環境ともっとも貧しい人々を破滅へと導こうとしているだけでなく、自らも破滅に向かっている」という彼らの「見立て」が正しいことを予感させる。

 北アフリカから中東にかけて再び沸き起こった「革命」への情熱は、ヨーロッパからアメリカへも飛び火しようとしている。今、疑いなく、「オルタナティブ」が必要とされ、目指されている。

 ネグリ=ハートによれば、こうした状況は、所有財産を保護しそれに仕えることを主要な目的とする「共和制という形態」から始まった「近代」が辿った必然的な結末である。19世紀の共和制―奴隷(主要な場は植民地)、20世紀の産業資本―労働者(主要な場は工場)、21世紀の金融資本―マルチチュード(主要な場は大都市)と、時代と共に変遷する支配層=資本は、常にそれぞれの対立項を持ち、しかもその支配体制を支える富は、当の対立項の労働に由来する。

 その依存関係の矛盾が両項とその関係の変遷の原動力ともなった。その果てに、今、生産物ではなく人びとが生きることそのものを商品とする生政治的搾取―生政治的労働の構図が生まれ、資本は金融資本の形態を取るに至ったのだ。

 その金融資本の破綻は近代を動かした矛盾の爆発と言え、それゆえに「資本は破滅への途上にある」と宣言するネグリ=ハートの〈帝国〉三部作が、「オルタナティブ」への礎石と見なされるのである。

 しかし一方で、私を含めた多くの読者は、ネグリ=ハートの著作を実際に読んでみて、ある種の戸惑いを感じたことを否めないのではないだろうか? 戸惑いの最大の理由は、

・・・ログインして読む
(残り:約1294文字/本文:約2915文字)