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[8]第1章 盛り場・風俗篇(8)

職業婦人の憤り

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

■尖端的職業婦人

 銀座など大都会を中心にひろまった「エロ・グロ・ナンセンス」の諸相の一方、国民の8割をしめる農民の生活は苦しく、娘を身売りする家もあいついだ。都会にあっても長引く不景気のもと失業者の数が増大し、女性も「食べるため」仕事を探さねばならなかった。

 当時、女性の働く場所は少なく、手っ取り早い働き口として「エロ」を売り物にしたカフェーが選ばれた。農村から売られた娘や都会で仕事を失った若い女性たちが、カフェー文化を裏で支えていたのである。

モダンガールたち

 カフェーの女給ばかりか、エロ・グロ・ナンセンスが流行ったこの時代、女性の社会進出は震災前と比べ急速に進んだ。彼らも都会を彩る「職業人」であった。尖端をいく「職業婦人」については、こんな風に活写されている。

 「省線電車、市内電車、そして円太郎。蜘蛛手十字のあらゆる交通機関、見渡す限り、おし合い、へし合う、すし詰めの満員の乗客たちに混じって、いたいけにも咲く、野辺の菫(スミレ)にも似た妙齢の女性たちが、つぶれそうになりながらも、天晴れ、独自の存在を主張して、乗ってゆくのを見る。誰あろう。職業婦人の群れである。

 青白い顔に、頬紅の粉が浮いて見える。打白粉でボカしたソバカスのあたりが、霧をへだてて星を見るようだ。あるいは眼鏡をかけている。あるいは曳き眉をしている。(中略)プラチニウムの大型に、新ダイヤをちりばめた髪飾。メリンスの袖口が、つつましやかに、銘仙の下からのぞいている。紅薔薇を染めた、同じ帯を、きりりっと胸高に結んで、布表のキルク草履をつっかけている」(『職業婦人物語』前田一)

■大阪朝日の尖端的婦人記者

 エロ・グロ・ナンセンスの効用として、それまでの「既成の価値観」「旧弊な習慣習俗」に疑問符やNOを身をもってつきつける女性が、数は少ないながら登場したことがある。

 映画、演劇そのほかの項目で彼女たちを順次紹介していきたいが、ここでは「職業婦人」の一例として大阪朝日新聞記者の北村兼子に触れたい。

北村兼子(「婦人公論」1930年年9月号)

 夭折したため今日では忘れさられた存在だが、エロ・グロ・ナンセンスの時代、マスコミのなかで彼女ほど勇猛果敢に「男社会」に挑戦し身も心も傷つきながら「世間常識」という「センス」と戦った「ナンセンス」感覚あふれた女性はいない。

 北村兼子は1903年大阪生まれ。大阪外語から関西大学にまなび、在学中に大阪朝日新聞の記者となった。関西大学にとって「初の女学生」で、美人で才気煥発、多才な人であった。社会や風俗探訪の記者として対象にとびこみ男性顔負けの活躍をしたのだが、一方、その果敢さ故に、「女だてらに」「女のくせに」とか「貞操を売り物にしている」などと批判中傷にさらされた。

 自著『怪貞操』のなかで兼子は「一人の婦人記者」を葬るため、男たちがいかに彼女をおとしめることをしたか、赤裸々に暴露している。

 当時の「センス」つまり「常識」は、男と女は違う役割をもっており、女は「女らしく」振る舞い、男性の領域にあまり進出してくるなというものだった。暗黙のように存在している世間の「掟」を破ることは、それこそ「非常識」つまり「ナンセンス」であった。

 エロ・グロ・ナンセンスの空気のなか、兼子は当時の「センス」に果敢に挑戦していった。たとえばカフェーの女給を徹底的に取材するために身分を隠しカフェーの女給に変装して働きつつ、取材をした。

 ノンフィクション作家の鎌田慧が大学卒の学歴を隠して大手自動車工場で工員として働き、その体験をもとに『自動車絶望工場』を書いたが、その類の「突撃取材」を敢行したのである。

 「良妻賢母」という言葉が社会で現実に生きていた時代である。彼女の「突撃取材」「体当たり取材」は新聞雑誌の格好の標的になった。兼子自身はそういう新聞雑誌に対しても果敢に反論を試みた。

 「奈良公園で男と散歩した。道頓堀のカフェーで彼女の姿をみた、ダンスホールで浮かれていた、活動写真に入ったところをみつけた。歩いているところをみたら左と右との脚を交互に動かしていた。欠伸をしているところを見た定めて男を待ちくたびれていたのであろう、帽子に花をかざしていたあれは誰から贈られたのであろう、クシャミをした、男からそしられているのだろう、等、等、等々、等々々、よくも調べた、よくも作った、よくも間違えた、また書く、またいう、根気がよすぎる、うるさい、やかましい、耳許でラッパを吹くな」

 と怒りをぶつけている。じっさい、彼女が「神経衰弱そうな男と偶然自動車に同乗」したところ、それを「貞操」を売り物にしているとでっち上げの材料につかわれた。職業婦人として男の仕事の領域に踏み込もうとする兼子に、危機感を覚えた男性側の攻撃、揶揄、あざけりでもあった。

 女性を批判するもっとも手っ取り早い方法として、「女を売り物にしている」と今もいったりする。当時流行った言葉は「貞操」である。兼子は「貞操を売り物」にして新聞記者という「男の領域」に踏み込んできた。それはとんでもないことである。そんな思いが、兼子を揶揄中傷する男性の書き手のなかにあったといってよい。

■自由恋愛の実践

 兼子は今で言う「自由恋愛」を実践していた。それが女性の社会進出にもつながるし男尊女卑の弊害を打破する力があると思ったからでもあった。したがって兼子は信念をもって既成の「センス」に果敢に対抗し、場合によっては「取材対象」の男と深い関係になることも辞さない。

 「恋愛は尊い堕落は卑しい、恋愛即堕落ではない。

 堕落したからといって私を攻める、それもよかろう、それから進んで私の属している新聞社にまで悪たいをつく、それは卑怯である。(中略)職業婦人の品行と新聞が関係が少ない、関係もないものを関係のあるように難癖つけて強いて婦人記者を放逐せよとわめく、このやり方は戦として卑怯なもので、私は憎む」

 さらに『怪貞操』のなかで兼子はこう主張する。

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