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ビンラディン狩りをエンタメ化した秀作、『ゼロ・ダーク・サーティ』(下)――テロを娯楽映画として商品化すること、および現在進行形のテロについて

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 本稿(上)をふまえて、以下ではサブタイトルに掲げた論点について、断章形式で触れてみたい。

『ゼロ・ダーク・サーティ』は(上)で述べたように、実際の出来事に即した劇映画だ。しかしながら、ビンラディンは殺害されたものの、アルカイダ系の武装勢力のテロは世界各地において現在進行形で拡散している。ゆえにビンラディン殺害に関わる国家機密には、いかに実話にもとづく映画といえども触れることができない。そもそも、映画の作り手たちはそれを知ることができない。

 そのことはたとえば、マヤの人物描写にも端的に表れている。つまり、マヤのモデルは実在の秘密諜報員であるゆえ、ビグローは彼女に接触できたかどうかについてはノーコメントだとしたうえで、作戦に参加した海軍特殊部隊の隊員の手記、「No Easy Day」などを参照しつつ、マヤの人物像を創作したと語っている。

 いいかえれば、そうした「想像の余地」があったからこそ、ヒロインの造形において、作り手は創作の自由度を手にし得たのだ。つまり、その自由度は、国家機密という制約を逆手にとって獲得されたのである。

 また、そういう事情ゆえに、ビグローは本作を「マヤという女性が変わって行く物語」だ、などと強弁し得たのだろう(パンフレット)。私はとてもそんなふうに本作を見れなかったし、「マヤの変化うんぬん」という嘘臭いフレーズは、ビグローの“セールス・トーク”にすぎないと思うが。

*いま述べたことに関連するが、軍事ジャーナリスト・田岡俊次氏は本作の「真実度」について、さらに踏み込んだ指摘をしている――「情報機関が秘密情報の入手経緯や相手方の身元、担当した機関員に関する事実を部外の映画関係者に話すことはきわめて考えにくい。(……)ビグロー監督らがCIAなどの幹部から話を聞いたのは事実だとしても、それが真相を隠すために作られた『カバーストーリー[ねつ造された話]』であった可能性は高いと考えられる」(『AERA』2013年3月4日号)。

 この田岡氏の言葉を読むと、CIAなどの情報機関が本作の“創作”部分――とりわけマヤの情報分析をめぐる一連の場面――になんらかの影響をあたえたのでは、と想像したくもなる。つまり情報機関が創作した「カバーストーリー」によって、(上)で述べたのとは異なる、もっとベタな物語内容や人物設定のレベルでの本作のフィクション性が増幅されたのではと、あくまで私自身は推測したくなるのだ(さらに想像をたくましくすれば、マヤのモデルが男性だった可能性ですら0%ではなくなると思うのだが、まあそれは本稿ではあえて考えないことにする)。

――いずれにせよ、こうしたことも含めて、「実話映画」は題材に<制約>されるのである。まったくもって映画と現実の関係は、一筋縄ではいかない、複雑微妙にねじれたものなのだ。

*さて本作の物語は、マヤの同僚7名を死亡させたアルカイダ幹部の自爆テロを契機に、彼女の復讐心に火がつき、彼女を変化させる、というふうに描かれる(マヤは事件後、「関係者を全員見つけてビンラディンを殺す[!]」、と局内で宣言する)。つまり、くだんのテロが、マヤの心境を変化させ、あたかも「忠臣蔵」の大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)のように、ビンラディン殺害(捕縛ではなく)遂行のための情報分析へと、彼女をさらに執念深く駆り立てるのだ。

 したがって作劇の点で言えば、くだんのテロは、マヤが標的捜索にさらなる執念を燃やす心理的動機づけとなる点で、最大のプロットポイント/物語の転回点なのである。

 なお、本作のジェシカ・チャステインの抑えた演技が、CIAへのリサーチによる「リアリズム」によっている点も興味深い。それについて、ジャステインはこう語っている

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