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[7]紙面の「スター・システム」化現象から考える

大澤聡 批評家、近畿大学文芸学部講師(メディア史)

 前回、戦前の新聞学芸欄に特定の書き手が頻繁に登場するという紙面状況を紹介した。極端な場合、有名な書き手の現実的な囲い込みへと帰結するだろう。そう締めくくっておいた。

 じっさい、新聞各社が小説家や批評家と専属契約を結ぶ現象が続発している。ジャーナリズムのなかでその傾向が話題にされた形跡もある。当時、映画産業の制作スタイル(ハリウッド経由)との類比で「スター・システム」と表現された。ここでいう「スター・システム」とは何か。

 1935(昭和10)年のある年度回顧記事は、「二三年来顕著」な現象としてこう解説する。すなわち、「ヂヤーナリズムが著名な作家、評論家と特別な関係を結び、これに多くの執筆の機会を提供する一方、他への執筆を拘束する」システムである、と。前回例に出した『東京朝日新聞』学芸欄と作家の山本有三とのあいだで結ばれた契約はまさにこれに該当する。

 並行して、社内スタッフから商略的に「スター」を育成する流れも見られた。新聞記者の有名人化が進む。こちらも、広義の「スター・システム」に含まれる。このたぐいの事例はいくらでも当時の雑誌・新聞から拾うことができる。それだけ一般化し、また世間的に認知されてもいた。

 そう、学芸欄が言論の場として強く再認識されはじめた時代だった(それにともない、雑誌には学芸欄を定期観察するコーナーが数多く誕生した)。たとえば、各紙学芸部(学芸課)の大幅なテコ入れが相次いで起こっている。1933年から34年にかけてのことだ。なかでも、『東京日日新聞』のケースが特筆される。同紙は、『大阪毎日新聞』とともに、1933年に勃発した内紛(いわゆる「城戸騒動」)の余波で弱体化していた(ちなみに、『大阪毎日新聞』は『東京日日新聞』の本社版にあたる)。

 1934年、学芸部顧問に作家の菊池寛が迎えられた。それと前後して、高田保や大宅壮一、木村毅、平野零児といった批評家が続々と入社する。ここには、当時の部長だった阿部真之助による画策が介在していた。阿部は戦後、次のように回顧している。

 「私は広く文壇を見回し、ジャーナリズムの範疇で、私の助言者となるべき人々を求めた。高田保、大宅壮一、木村毅の三君が、同時に毎日に入社するようになつたのは、こうした事情によるのだつた。外に杉山平助に目をつけ、口をかけてみたが、これは朝日と先約ができていたので、あきらめなければならなかつた。そのため四天王に一天王が欠けてしまつたわけである」

 まさに、「スター」を揃える意図と自負が垣間見える。こうして、急速に人員が充実していく。それが紙面にもしっかり反映される。

 「入社」とはいうものの、「正式の社員とは別格で、決つた勤務もなく、出勤も自由だつた」ようだ。同時代の業界誌が暴露するところによると、給与は、

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