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何だか拍子抜けして、気持ち悪かった村上春樹の新作

古賀太 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)

 村上春樹の3年ぶりの書き下ろし小説『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』(文芸春秋)を読んで、十分に楽しみながらも、同時に何だか拍子抜けした気分を味わった。題名も含めて謎のない作りも、正面から恥じることなく描かれる青春小説の純度の高さも、造本も含めた趣味の良い細部も、すべてがあまりにも明白にそこにあるからだ。

 楽しんだ理由は、サスペンスに満ちながら、調和のとれたシンプルな構造にある。主人公の多崎つくるは鉄道会社に勤める36歳で、2歳年上の女性沙羅とつきあっている。高校時代にはアカ、アオ、シロ、クロと呼ぶ4人の男女とグループを組んでいた。彼らには苗字に色を表す文字があった。それがない自分だけが東京の大学に進み、20歳の時に突然彼らから絶交を言い渡される。小説の冒頭で描かれるのはその苦悩だ。「大学二年生の七月から、翌年の一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことばかり考えていた」。

 そのトラウマを抱えながら生きる多崎は、沙羅からその4人を再訪するよう勧められる。仕事のできる沙羅は、いつの間にか彼らの連絡先まで入手した。

 こうして多崎の「巡礼の年」が始まる。彼らは16年後の現在どうなったのか。多崎が絶交された理由は何だったのか。そして多崎はトラウマから立ち直るのか。沙羅と生きることになるのか。それらのサスペンスが各々の人生のメロドラマのような歩みの中で一つ一つ解明されてゆき、多崎は大人として歩み出す。この小説全体が、まるで大人になるためのイニシエーションをテーマとした正統的な青春小説かのような形を取っている。

 一人一人を訪ねるうちに、時の歩みがもたらした人生の残酷さが露呈する。アカとアオはそれなりに平凡な大人になっているが、シロとクロは違う意味で劇的な運命を歩んでいた。そしてその締めくくりとしてフィンランドまで出かけてゆき、彼の「巡礼の年」は終わる。

 「僕にはこれという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない」と言う多崎は、「たとえ君が空っぽの容器だったとしてもそれでいいじゃない」「もしそうだとしても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ」とフィンランドで告げられる。その大いなる安堵感。

 「色彩を持たない多崎つくる」とは、4人の仲間と違って名前に色がないという、まさに文字通りの意味だし、同時にそれは自分には個性がないという彼のコンプレックスでもあった。それが「巡礼の年」を経て、ようやく過去と向き合い、大人として生きてゆくための自分への自信を獲得する。まさに題名通り。

 この小説ではこれまでの村上作品のように変な事件も起こらず、奇抜な登場人物も出てこない。

 あえていえば、中盤で多崎が大学時代に出会う灰野の挿話がそれにあたるかもしれない。彼は4人から絶交された多崎が出会う2つ下の学生で、4人の穴を埋めるように仲良くなる。灰田はリストの『巡礼の年』という曲集が好きで、彼はその父親が60年代末の学生時代の放浪中に九州の山中で緑川というジャズ・ピアニストに出会う話をする。緑川の弾くセレニアス・モンクの『ラウンド・ミッドナイト』。思い出の中の友人の話に出てくる、その父親から聞いた話という入り組んだ構造も村上らしい。

 まるで間奏曲のようなこの挿話を除くと、この小説に謎めいたものはなく、

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