2013年07月16日
『パームビーチ・ストーリー』における狂騒とエレガンスの共存は、たとえば“うずら撃ちクラブ”の老人が列車内で猟銃をぶっぱなす物騒なシーンにも、端的に表れている。――最初は冗談半分に銃を構え、パンパンとか口で言いながら射撃の真似をしていた二人のメンバーが、やがて黒人のウェイターにクラッカーを投げさせて、それを標的にして実弾で“クレー射撃”を始めてしまうのだ(車窓が粉々に砕け散っても、二人はいっこうに射撃を止めない)。
この場面は、ヘタすれば“やりすぎ”になるところだが、けっしてそうはならないばかりか、アナーキーな痛快さが弾け飛ぶ。その最大の理由は、スタージェスが暴走する人物たちの心理的な動機をほとんど描かずに、もっぱらエスカレートする行為/アクションのみを撮るからだ。もちろん、彼らとてどんどん気持が大きくなって遂に発砲に及ぶのだと、われわれは納得しかける。
が、その場面は、そうわれわれが納得するよりずっと早く、われわれの眼前をスピーディーに走り抜ける。つまりこの場面は、ハチャメチャでありながら、ハイテンポな快走ゆえに、じつにスマートで洒脱なのだ(ちなみに“うずら撃ちクラブ”には、ヒッチコック、ホッチキス、マンキーウィー(『裸足の伯爵夫人』などの名作を撮った、J・L・マンキーウィッツのもじり)、といった名前のメンバーがいる)。
そして、こうした人物たちの、考える前に喋り行動するかのような<あっけらかん>とした感じは、ヒロインのジェリー/クローデット・コルベールや他の人物の、文字どおり“スクリューボール” (変人的)な言動にも顕著である。
つまるところ、スクリューボール・コメディの登場人物たちは、心理的・メロドラマ的存在というより、機械のように喋り行動する、すぐれて活劇的存在なのだ。
ただし、主人公夫婦を演じる二人の俳優に関して言えば、彼らは活劇的存在でありつつ、行動やセリフによって喜怒哀楽を過不足なく表現する、なんともアクロバティックな演技を見せるプレイヤーである。またそれゆえ、観客はジェリーとトムに普通に感情移入しうるのだ(行動的で活発、かつ機転の利くスクリューボールなジェリーは、はすっぱ女ではなく根は純情)。
また、それで言えば、本作に限らずスクリューボール・コメディでは、悪人や変質者が登場しない。登場人物たちは変人・奇人であっても、常識と非常識の、分別と無分別のバランスをうまく(あるいは、かろうじて)とっている。ほとんどの人物はさばさばしていて、粘着質なキャラはめったに出てこない。これまた、このジャンルにおいては、クレイジーさと洒脱さとが絶妙に混交している、大きな理由のひとつだろう。
カメラワークの点で注目すべきは、本作に限らず、スクリューボール・コメディにおける二人の人物の会話シーンでは、ハリウッド古典期に確立された<切り返し>、すなわち二人の顔のアップを交互に45度の角度でうつす手法が、ほとんど使われないことだ。カットは割られるにせよ、二人の人物は必ずと言っていいほど、同一フレームの中でとらえられ、早口のセリフを交わす。
これはおそらく、メロドラマなどで多用された顔のアップの<切り返し>が、スクリューボール・コメディの高速度には不向きだからだ(顔のアップの<切り返し>は、メロドラマ的な情感の高まりを表すには効果的だが、疾走感や活劇感や滑稽感を減殺してしまう)。
いまひとつ興味深いのは、
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください