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[9]第2章 演劇篇(1)

AKBの「元祖」

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

浅草の踊り子たち

 不特定多数を相手とするビジネスは、なにがきっかけで流行ったり廃れたりするかわからない。一種の「社会現象」にまでなっている少女が群れをなして歌い踊るAKB48も、発足後しばらくはほとんど話題にもならず、劇場がガラガラであったと聞く。

 ブームというものは一時的なもの。長く続くことは稀なので、いずれ終焉に向かうであろうが、ブームの火付け役である当事者はなぜ突如としてブームになったのか、昔も今もじつはあまりよくわかっていない。

 1929(昭和4)年の暮れ、浅草寺横の奥山に誕生したカジノ・フォーリーという小さなレビュー劇団が、一大ブームを引き起こした。AKBのように15、16歳から20歳あたりまでの素人娘が、集団で腰を振り脚をあげてエロチックに歌い踊る。ナンセンスに味付けされた寸劇のような演目と混在したレパートリーであったが、多くの人を引きつけたのは素人娘による、いかにも素人っぽい踊りや歌であった。

 これを「レビュー」と称した。

カジノ・フォーリーの楽屋(カジノ脚本集より)カジノ・フォーリーの楽屋(カジノ脚本集より)
 当時パリで流行っていたレビューを真似たものであるが、本場パリの例えば「ムーラン・ルージュ」のプロの踊り子の鍛え上げた踊りなどとは似て非なるもので、日本式にアレンジした泥臭いものであった。

 場所も浅草六区の興行街のはずれの四区にあり、芝居や舞踏関係者も「趣向のかわった見世物」程度の認識で、「インチキレビュー」といわれたりもした。

 ところが、関東大震災後の大不景気と先行き不安からくる刹那的空気のもと、この「インチキレビュー」が一大ブームとなり、一時は東京中のほとんどあらゆる演芸ホール等で、素人同然の若い娘たちが「生脚(なまあし)」で踊り歌う光景が見られた。

 AKBのブームを超える盛況であり、大阪や名古屋等にも伝搬していった。そうしないと、東京だけでは客が会場に入りきらなくなったのである。

流行る下地

 流行る下地はあった。すでに震災前から無声映画(活動写真、略して活動)を専門に上映する映画館ができていたが、震災後、客寄せのため映画の合い間にアトラクションを行う映画館がふえていた。そのひとつに「電気館レビュー」があった。

 内山惣十郎の『浅草オペラの生活』によれば、昭和4年1月、木村時子や柳田貞一、中村是好など浅草オペラの俳優たちが出演して幕を開けた。映画の間のアトラクションであったが、当時としては斬新かつ奇想天外の展開で、曾我廼家(そがのや)劇などゆったりした展開の舞台に慣れていた浅草のファンを驚かせた。

 第2回公演の『サロメはジャズる』(内山惣十郎作)では、オープニングこそオスカー・ワイルド原作の『サロメ』に忠実に真面目に演じられたが、突如ナンセンスな喜劇に転じた。サロメは予言者ヨカナーンとユダヤ国から現代のパリに駆け落ちし、最新流行の服に着替えてレビュー見物に出かける。やがてユダヤ王国の追跡から逃れるため飛行機で日本へ飛ぶ。そして元禄花見踊りなどを見物し、さらにハワイに飛んでフラダンスを見たあと、ニューヨークへ飛んでブロードウェイでジャズ・ダンスに興じる、といったナンセンスな展開だった。

 パリのレビューとアメリカのジャズを大胆に取りいれ混交させた破天荒なレビューであり、曾我廼家劇などの人情コメディに慣れ親しんでいた浅草のファンは驚いた。「電気館レビュー」は楽屋裏でのトラブルが多発し半年たらずで解散に追い込まれたものの、ほかにも下地はあった。

 1927(昭和2)年9月、宝塚の少女歌劇で『モン・パリ』が公演されたことである。日本でのレビュー公演の嚆矢になったものだが、大好評でロングランとなり、その後の宝塚歌劇の原型になった。一方、老舗の松竹では楽劇部(後の松竹歌劇団)を作り、生徒を東西の松竹座チェーンのアトラクションに出演させるようになっていた。

 松竹座チェーンでは、パリのムーラン・ルージュやアメリカのブロードウェイからレビュー団を呼んだりしており、旧来の日本の舞台にないものが一部ながら日本に根づきはじめていたのである。

 これらのレビューに共通しているのは、テンポの良さと心地よいリズムであり、スピードであった。一方に築地小劇場を中心に生真面目に人生や社会を追究する新劇があった。江戸から明治、大正をへて連綿とつづく型にはまったウエットな歌舞伎や新派なども命脈をたもっていた。

 さらに落語や浪曲等の大衆娯楽があったが、未曾有の不景気風が吹き荒れる中、先行きの不安感をかかえた庶民は、手っ取り早くスカッとした気分にさせてくれる斬新な気晴らしを求めていたのである。

 リズムがあり斬新でナンセンスでエロ・グロ味が加味され、しかも手っ取り早く楽しめる。激変期には先行き不安などから「刹那的」で「手っ取り早く楽しめる」ものが流行るものである。エロ・グロ・ナンセンスに加えて賭け事や飲酒、さらには非合法な麻薬類などもその範疇にいれてよい。庶民の鬱屈した感情のはけ口として、その種の娯楽、気晴らしが一定の役割をはたすようだ。

 欲求不満のはけ口となってそれで終わり、というものもあるが、新しい試みが一種の「土壌」となって、既成の価値観を打ち破る「新しいもの」の誕生につながる可能性もある。事実、演劇に於いてもエロ・グロ・ナンセンスの現象がそれまでの型にはまった表現をうちやぶり、斬新な表現を生み出した。

水族館から生まれたカジノ・フォーリー

 カジノ・フォーリーの誕生した場所はもともと水族館であった。浅草名物の瓢箪池の裏手で、浅草六区よりやや離れた場所に位置していた。開館は1899(明治32)年。東京市から「教育参考館」として土地を無償で提供され補助金もでており、芸能色はまったくなかった。その後、隣に昆虫館を併設した。

 教育的見地から出来た施設が、時をへてエロ・グロ・ナンセンスのシンボルともいえる催しものを生み出すというのも、大いなる皮肉である。

 水族館といってもハタ、ホウボウなどの魚類を16の漁槽にいれたもので、一時オットセイに芸を仕込んで見せたりした。やがて飽きられ、客が入らなくなった。そこで階上に演芸場をつくり、水族館の入場料を払えば安木節や大神楽などのほか、野村少女歌舞団などの舞台を見られるようにした。

 そんな努力にもかかわらず客足がのびず、経営不振に陥った。水族館は借金の抵当流れになり、資産家で事業家でもあった桜井源一郎が管理をすることになった。なにをやったら流行るか、桜井源一郎が考えあぐねていたところ、桜井夫人の2人の弟が斬新な提案をした。

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