2013年08月05日
もはや後半戦、物語もいよいよ佳境というときだが、今さらながら、NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」について書いてみることにした。確か、何かの祝日の日だったと思うが、1日に3回「あまちゃん」を見たことがあったのがきっかけといえばきっかけ。朝と昼の放送を見て、夜に、もう一度、毎日録画している分を見たのだ。
驚いたのは、3回見ても、飽きずに楽しめたことだ。これは一体、何を意味するのか。
思い出すのが、故・桂枝雀が言ったとされる「『知』的なものには記憶があるが、『情』的なものには記憶がない」という理論で、森村泰昌さんの著書で知ったものだ。知識や情報に類すること、例えば王貞治は双子だったんだよ、といったことは、最初に聞くと「へえ」と驚くが、2回目以降は、「あ、それは知ってる」となって、感動しない。記憶が残っているからだ。
でも、可愛らしさや美しさといった「情」的なものは、例えば赤ちゃんの笑顔を見て、「ああ、この赤ちゃんの笑顔は前に見たことあるから」などと、可愛いという思いがなくなることはない。お気に入りの美人が現れたときも同じ。感情は記憶されないからだ。
こういう理論です。
「あまちゃん」の場合、人気の秘密の一つに、「じぇじぇ」といった方言や、カラーコンタクトを使っているのではないかと思えるほどに黒目が魅力的な能年玲奈の愛らしさ、1980年代アイドル文化へのオマージュやパロディ、スナック「梨明日」などで繰り広げられる小ネタがあると言っていい。やや小ネタに頼りすぎの感もあり、私が、「ちりとてちん」や「カーネーション」などの名作に比べ、ドラマの格としては、「あまちゃん」が一歩及ばないのではないか、と思っていたゆえんでもある。
しかしよく考えれば、「ネタ」とはつまり、情報であり「知」的なものではないのか。なのに3度見ても、なぜ飽きないのか。それはおそらく、そのネタが発せられる、場面や役者の気配や間合いといったものが「情」として作用しているからではないか。
例えば、主人公のアキ(能年)に思いを抱くヒロシ(小池徹平)が、その思いを遂げられずもじもじしているときに、相手は「わたすのことか」と言ってしまう弥生(渡辺えり)の間の絶妙さ。考えてみれば、このドラマには、荒川良々、杉本哲太、美保順と実に雰囲気と間合いを持った役者がそろっているではないか。
こうして情が生まれ、何度見ても飽きがこないのだ。
ただし、ネタの中身にせよ、そのスピード感にせよ、高齢者には着いて行くのが難しいところがあるのだろう。「好調」といわれながら、安定しすぎるぐらいに安定していた「梅ちゃん先生」に視聴率では一歩及ばないのは、そのあたりが影響しているように思う。
さらに、どんなに小ネタをちりばめても、半年の長丁場、視聴者の関心を引きつけ続けるのは容易ではない。しかし宮藤勘九郎は、ちゃんと「技」を使っている。
その一つが
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