2014年06月11日
6月4日、『アナと雪の女王』が新記録を打ち立てた。『タイタニック』(1997年)の持つ動員記録1683万人を抜き、日本で公開された外国映画の観客動員記録を17年ぶりに更新したのである。6月8日までで累計観客動員は1757万人、累計興行収入は223億円を超えた(6月9日付『シネマトゥディ』)。
5日には、オリジナル・サウンドトラックCDが出荷100万枚を突破した。アニメーション映画のサントラ盤出荷の新記録を達成した。売上は4日の時点で72万7000枚、こちらも100万枚の期待がかかる(6月6日付『スポニチアネックス』)。
『アナと雪の女王』のクリス・バック監督は「アンデルセンの『雪の女王』からインスピレーションと全体の雰囲気、キャラクターをもらった」と語っている(2月19日付『MOVIECLIPS Extras』「Frozen Interview 2 Chris Buck & Jennifer Lee」)。
今回は映画の源泉となったアンデルセンの生涯と『雪の女王』について考察してみたい。
アンデルセンの創作童話は、世界各国で無数に複製・再話されている。しかし、童話はアンデルセンの著述のごく一部であり、『全集』の約6分の1に過ぎないという。それを数倍する紀行・日記・書簡などがあり、小説・戯曲・詩も数多いが余り知られていない。デンマークの研究者E・ニールセンによれば、「みんなが読んでいるのに、だれもその本質を知らない作家」だという。
1801年、武装中立国であったデンマークはイギリス海軍の攻撃に屈したことから、フランスと同盟を結び対イギリス「ナポレオン戦争」に参戦。結果として経済的混乱が巻き起こり、1813年に国家財政は破綻。1815年のナポレオン敗戦により領土は分割され、「キール条約」によりノルウェーをスウェーデンに譲渡。さらに、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を巡って二度に亘る「デンマーク戦争」が勃発し、プロイセンとオーストリア帝国に敗戦。
戦争による高揚と挫折、長期経済不況、ユダヤ人排斥運動等々—、アンデルセンが生きた時代は、まさに戦禍と混乱の時代であった。
アンデルセンの父は貧しい靴職人であった。アンデルセンは幼児学校に通うが長続きせず、初等教育は断続的にしか受けていない。父は従軍した際の負傷が元でアンデルセンが11歳の時に死去、母は1年後に再婚した。
芝居に夢中だったアンデルセンは、14歳で家を出て、首都コペンハーゲンで苦難の3年間を過ごす。支援者の助けも得て何とか子役として王立劇場で働くものの、声変わりで歌手や役者の道は閉ざされる。
容姿にも強い劣等感を持っていた。次に戯曲家を志すも、ろくに文章も綴れないために夢は破れる。王立劇場支配人の援助により17歳で初等教育からやり直し、23歳で大学に進学。20歳で最初の詩『臨終の子』(死に行く子が母への思慕を綴った内容)を発表し、学生作家としてデビューを果たす。
1年で大学を卒業、7年間の兵役を果たし、その間も著述を続ける。1935年の長編小説『即興詩人』と最初の『童話集』を出版し、注目の的となる。創作童話『人魚姫』『みにくいアヒルの子』『マッチ売りの少女』などで名声を得て一世を風靡する存在となる。一方で、アンデルセンは女性に強い憧れを抱くものの、何度も失恋を繰り返し生涯独身で通した。
『雪の女王』を執筆した39歳頃には、スウェーデンの歌手ジェリー・リンドに恋して
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