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土井たか子さんと大江麻理子キャスターのはざまで(上)――ただひとりのロールモデル

矢部万紀子 コラムニスト

 土井たか子さんが亡くなった。訃報とともに土井さんの姿をテレビが映すのを見ながら、少し泣いた。恩ある人が亡くなってしまった。

 「恩」について、個人的な話だが書かせていただく。

土井たか子拡大土井たか子さん=1992年
 男女雇用機会均等法についてから始める。男女雇用機会均等法(雇均法)という法律は、日本を変えたと思う。戦前戦後を生きた人が憲法は日本を変えたとはっきり意識したであろうように、1961年生まれの私は雇均法が日本を変えたと実感する。

 私が新聞記者になったのは、1983年だ。雇均法が施行されたのが1986年だから、就職活動をしていた当時、雇用機会は男女で全く均等でなかった。しがない大学の経済学部の学生だったが、就職室には有名企業の求人情報がいっぱい貼ってあった。募集人員はすべて「男子若干名」と書いてあったが、そんなものだと思っていた。

 コネのない女子に受験機会だけでも均等な組織は、役所と一部のマスコミと、ごくごく一部の会社だけだった。だから、新聞記者として採用されたこと、うれしかった。そして、それゆえ自分の中に「入れていただいただけでありがたい」と思う自分がいることを、後に自覚するようになる。

 初任地は、北関東の県庁所在地にある支局だった。10人余りの小さな所帯だったが、働いている女性は事務の人と私だけだった。新人記者の常として、まずは警察に出入りした。おじさんしかいなかった。そこから少しずつ仕事には慣れていったが、ずっと戸惑っていた。

 この戸惑いは後に言語化できたのだが、「ロールモデルの不在」であった。働く女性の先輩というのは、周囲には皆無だった。そのこともそうだが、それ以前に均等でない雇用機会の中、なんとか雇用された時点で小さくゴールしてしまい、そこからの自分を描くことをしていなかった。だから、先が見えず戸惑った。

 私と同世代の女性でも「なりたい自分」をはっきりもって、志高く働いていた人はたくさんいたと思うが、私は本気で「新聞記者の雰囲気は嫌いじゃないから、誰か新聞記者と結婚して、奥さんになったほうが楽しいんじゃないかなー」などと考えていた。

社会党の第1回日米交流委員会であいさつする同委員長の土井たか子代議士。右は石橋政嗣・社会党委員長19847拡大社会党の日米交流委員会であいさつする土井たか子さん。当時、54歳。右は石橋政嗣・社会党委員長=1984年7月
 そんな新人記者2年目か3年目のある日、土井たか子という人が、私の住む県庁所在地にやってきた。

 社会党副委員長という肩書きで演説をする土井さんを見て、衝撃を受けた。誰の選挙応援だったのか、そのことを記事に書いたのか、そういうことはすっかり忘れてしまったが、土井さんを見たときの驚きは、はっきり覚えている。

 とにかくカッコよかった。過去に見た他の人の演説とは、格が違った。道行く人が足を止めずにいられない迫力。背が高く、スーツが似合っていた。堂々としていた。

 そのとき、こう思ったことを鮮明に覚えている。「ずっと働いていると、こういうカッコいい女性になれるのか」。 

 それなら、誰かの奥さんになるよりいいのではないだろうか、とセットで思った。働く先にこんなカッコよさがあるなら、いいかも、と。

 大げさでなく、働く覚悟ができた瞬間だったと思う。

 土井さんは1983年に石橋政嗣委員長のもと社会党副委員長になり、1986年に委員長になっている。私が入社した年に副委員長になり、雇均法が施行された年に委員長になったわけだ。

 そして土井さんを見た日から30年もたったが、私は今日も働いている。

 いいことばかりではなかったが、とにかく働き続けている。その始まりが土井さんだった。このご恩は、一生忘れない。

 あの頃、社会党県本部でテレフォンカードをもらった。「憲政史上初の女性党首」とあり、赤いスーツの土井さんがいた。本人の筆であろうサインが添えてあり、達筆だった。そのテレカ(などという表現は、もうすぐ通じなくなるのだろうが)は大切に保管していたから今、横に置いて、この原稿を書いている。

 土井さんが重責をこなしていく様子を、ずっと励みにしていた。

 彼女の代名詞にもなっている「やるっきゃない」は、委員長を引き受けたときの台詞だ。

 衆参ダブル選挙で惨敗した社会党が、選挙という「雇用機会」で男性どころではない圧倒的な強さをもつ土井さんに頼ったのだ。男性があれこれやって、立ち行かなくなった組織を引き受けたのだから、簡単にはいかないと考えるのが普通だ。だから、相当な覚悟で「やるしかない」と言ったのだろう。

 それが「やるっきゃない」という表現になったのは、狙ったわけではないはずだ。図らずも出たであろう言葉だが、リズムがあり、強さがあったからこそ、代名詞になったのだと思う。そこに困難な仕事に立ち向かう姿勢を読み取り、前向きにいくしかないのだと励まされた女性は、私だけではなかったと思う。

 「ダメなものはダメ」を女性の狭量さのように言う人がいるが、 ・・・続きを読む
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筆者

矢部万紀子

矢部万紀子(やべ・まきこ) コラムニスト

1961年生まれ。83年、朝日新聞社に入社。宇都宮支局、学芸部を経て、週刊誌「アエラ」の創刊メンバーに。その後、経済部、「週刊朝日」などで記者をし、「週刊朝日」副編集長、「アエラ」編集長代理、書籍編集部長などをつとめる。「週刊朝日」時代に担当したコラムが松本人志著『遺書』『松本』となり、ミリオンセラーになる。2011年4月、いきいき株式会社(現「株式会社ハルメク」)に入社、同年6月から2017年7月まで、50代からの女性のための月刊生活情報誌「いきいき」(現「ハルメク」)編集長。

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