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國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(2)】――解釈改憲に向かう憎悪とロジック

國分功一郎 哲学者、高崎経済大学准教授

 日本の近隣で何か有事が起こるかもしれないから、それに備えなければいけないということがまことしやかにささやかれています。

 少し前にあったイラクへの自衛隊派遣のことをちょっと思い出して下さい。随分もめましたが、「非戦闘地帯なら戦闘してないんだから、戦争中じゃない。だから、そこには自衛隊は送れる」というこじつけのような理屈をつくって、自衛隊を遥か遠くのイラクにまで派遣しました。

提供=国立市公民館会場は満席に(提供=国立市公民館)
 2003年の小泉政権のときでしたけれども、さんざんもめました。で、あのときも、一応、これまでの憲法9条の解釈は守っているんです。

 この解釈は60年間ずっと守られている。元内閣法制局長官の阪田雅裕さんへのインタビュー(「阪田雅裕さんに聞いた(その1)」)で、法学者の南部義典さんが、《これまでは太りはしたけどなんとか9号サイズのスカートをはき続けていた、周りから見たら「いつかはち切れるよ」という感じではあるんだけど、でもとにかくサイズは変えてなかった》と、面白い言い方でこれを説明しているんですが(笑)、とにかくちょっとむちゃかもしれないけれども、一応解釈は変えないでやってきたと。

 これは本当にこじつけですよ。こじつけですけれども、一応憲法解釈を守るためにそういうことをやったわけですね。

 そんなこじつけをしてまでイラクなんてあんな遠いところに自衛隊を送った経験があるのだったら、日本の近隣諸国で有事があった時に備えて法律を整えておくということなど簡単なはずです。また世論の支持も得られるでしょう。

 つまり本当にそうした有事に備える必要があるならば、今すぐにでも法律をつくばいい。邦人輸送ということがやたら言われていましたが、邦人輸送のための法律をつくればよいのではないでしょうか。なぜ作らなかったのでしょうか。

 「安全保障環境の悪化」というのが決まり文句になっていますが、本当に危ないのだったら早く法律を作って対応しなければならないのではないですか。そもそも、集団的自衛権というのは、自国の防衛力強化と関係ありませんね。他国が攻撃を受けている際、自分は攻撃を受けていないのに反撃するというのが集団的自衛ですから。

 こう考えると、安全保障を考えているように見えて、それを少しも考えていないのが今の流れではないかということになる。

 他方で、現行の憲法解釈においても集団的自衛権は“限定的に”行使できるというのが、今回の閣議決定の内容だったわけですけれども、これが本当に集団的自衛なのかどうかよく分からない。

 というのも、日本に対する武力攻撃の明白な危険がなければ行使できないというのがこの「限定」の意味なんですが、これは普通に個別的自衛の対象であるわけです。日本は、憲法9条のもとでも個別的自衛権は行使できるって解釈でずっとやってきているわけですから、それだったら別にこんな限定的行使の容認など不要です。

 するとこういう疑問が出てきます。一部のメディアや一部の世論は、「日本を守るために集団的自衛権行使容認が必要だ」と主張していました。なぜそうしたメディアや世論は今回の閣議決定を「これでは足りない」と批判しないのでしょうか。

 この「限定」がそのうちどんどん拡大されていって大変なことになるという危険ももちろんあります。しかし、それよりも前に、別にこれだったら個別的自衛権でいいじゃないか、そもそもなぜ政府はこのような半端なものを認めたのかという疑問が出てこざるを得ない。

 繰り返しますけど、「集団的自衛権が必要だ」と言っていた人たちはなぜ今回の決定を批判しないのか。

改憲が自己目的化する理由

 まとめるとこうなります。安全保障のことが問題だと言いながらも、安全保障のことはないがしろにされている。集団的自衛権が必要だと言いながら、出てきたものは集団的自衛権なのだかよく分からないものになっている。結局何がしたいのでしょうか。筋が通っていない。

 しかし、ある観点からみると筋が通っているんです。どういうことかというと、ここにあるのは「とにかく改憲したい、改憲してみたい、改憲できないならせめて解釈だけでも変えたい」という欲望だということです。つまり、安全保障上の問題があるから改憲の話が出てきたのではない。改憲したいから、世論が反対しにくい安全保障の話題が使われたんです。

 思い出してください。わずか1年半前には、憲法96条を変更して改正をしやすくするという話がありました。あのときに首相は「憲法を国民の手に取り戻す」というスローガンを打ち出していた。それはどこに行ってしまったのでしょうか。

 あのスローガンを信じていた人などいなかったとは思いますが、それにしても1年半後にはそんなものはなかったかのように「解釈改憲」を進めるわけですから、露骨すぎます。96条を変えるというのは、改正の条件を変えるという裏技のような話でした。ですから、総スカンを食らった。

 また、国民投票の法整備はできたけれども、それを実施できそうな雰囲気もない。だったら、もう形式はいいから解釈だけでも変えたい……。こういう風に話が進んできて今に至っているのです。

 これもよく木村(草太)さんと話をするんですが、「こういうことをしたいが、憲法があってできないので、憲法を変えたい」ということなら、堂々とそれを選挙で訴えて、憲法を変えるという選択肢についても考えていい。

 ところが、今回の解釈改憲を通じて見えてくるのは、単に「とにかく変えたいんだ!」という欲望だけなのです。とにかく変えたいという気持ちだけがあって、理由は後から探してきている。そう考えないと説明がつかないし、そう考えると説明がつく。

 言い換えれば、これは改憲が自己目的化しているということです。何かのために改憲するのではなくて、改憲自体が目的なんです。それにしても、なぜ、憲法を変えるなんてことが自己目的化するのでしょうか?

 もちろん、こう考えるほかありません。すなわち、彼らは戦後の憲法体制、あるいは今の憲法そのものに対する憎悪のようなものを抱いているということです。「戦後の憲法体制がとにかくイヤだ、だから変えたいんだ、とにかく変えたいんだ、何のためにとかじゃなくて、とにかく変えたいんだ」ということです。

 これはある意味では訳が分からない。でも、僕は何となく分かる感じもします。というのも、彼らは憲法そのものじゃなくて、憲法を透かして別の何かを見ているのです。

 それは具体的には「護憲! 護憲!」と叫んでいた人たちの顔かもしれないし、抽象的には「戦後民主主義」と呼ばれているもの、あるいはそのような意識かもしれない。とにかく憲法を透かして見ているその何かに対する強力な憎悪があって、それが「とにかく憲法を変えたいんだ!」というメンタリティを生み出している。それによって、むしろ安全保障などが蔑ろにされているというのが実情ですね。

 以上が、「解釈改憲」を分析するための一つめの視点です。簡単に言うと、戦後の憲法体制に対する憎悪が、「とにかく憲法を変えたいんだ」という気持ちをブーストしている、と。

 ここで、もう一つの視点の方に移りましょう。

 ここでは、先の場合とは異なり、本当に集団的自衛権が欲しい人たちのロジックが問題になります。政治というのは決して一つの傾向、一つの欲望で動くものではありません。今回の「解釈改憲」のきっかけを作ったのは、先に説明した欲望です。けれども、そうやって流れが作られると、そこにいろいろな人が相乗りしてくるわけですね。この場合だと、本当に集団的自衛権が欲しいと思っている勢力が、これはチャンスだと考えはじめた。

 1991年の湾岸戦争の際、日本は130億ドル(約1兆7千億円)もの金を拠出しました。ところが、それでも「カネだけ出して人は出さないのか」という非難を受けた。どうも外務省にはそのことについての恨みのような気持ちがあるようです。

 すると、きちんと集団的自衛権というものができるようにして、武力を使った国際貢献にも参加したい、多国籍軍にも参加したい、だからそういう国にしようという話になる。そういう勢力には、先に言った「とにかく改憲したい」人たちは利用できるわけですね。

 僕は先ほど、集団的自衛権そのものではなくて改憲を欲望する人たちの話をしました。しかし、だからといって、集団的自衛権を行使したい人たちがいないなどとは思っていません。彼らの場合には、とにかく「集団的自衛権」という6文字を認めさせることが重要で、あとは少しずつ制限の枠を広げていけばいいと考えているのかもしれない。

 実際に小競り合いみたいな形で戦争状態をつくってしまい、改憲のハードルを下げるということも考えられます。それを使って一気に改憲するというわけです。僕は「いくらなんでもそれはないかな……」とも思っていますが、集団的自衛権というのを本当に欲しい人たちは、そこまで考えているかもしれない。

 今まで60年間日本の政府が維持してきた解釈、すなわち、「自衛権は放棄していないのだから個別的自衛権は行使できる」のだというこの解釈そのものの評価は僕には難しいです。そんなに変なものではないという気もしますし、他方で、そういう解釈でやっていたから結局ずるずると今回のような事態を招くことにもなったのだという気もします。

 いずれにせよ、憲法の文面を見たら、個別的自衛権はともかく、集団的自衛権を行使できないのは明らかなので、ずるずる解釈を拡大していって条文が空文化するという事態は大変心配です。とにかく、集団的自衛権を行使したいのならば改憲しなければならないし、改憲していないのならそれは行使できないと、これだけはきちんとここで確認しておきたいと思います。 (つづく)

●國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。哲学者。高崎経済大学准教授。早稲田大学政治経済学部卒業。2006年、東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻博士課程単位取得満期退学。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『来るべき民主主義――小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)など。

*この原稿は、2014年8月31日、東京・国立市公民館で開かれた「『図書室のつどい』 哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」(國分功一郎氏、木村草太氏)の講演をもとに構成したものです。