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國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(3)】――民主主義と立憲主義はどういう関係にあるのか?

國分功一郎 哲学者、高崎経済大学准教授

 ここから少し、概念の話に入っていきたいと思います。

 ここのところ、急に耳なれない言葉が注目を集めています。それが「立憲主義」という言葉です。

 これは憲法学者や政治学者でもなければ、知らなくてもおかしくない言葉だったと思います。そんなによく口にするものでもない。憲法があったりする国では当たり前の原則でしたし。でも、それが突然注目を集め始めた。特に今年に入ってからだと思います、この1年ぐらいです。

提供=国立市公民館拡大提供=国立市公民館
 きっかけは、集団的自衛権の行使容認をめぐる憲法解釈について、首相が「私が最高責任者だ」と言ったあの発言であったと思います。今年2月の衆議院予算委員会での発言です。もちろんこれはむちゃくちゃな発言です。いかなる権力も憲法によって制限されねばならないというのが立憲主義の考え方ですが、それを反故にするような発言ですから。

 しかし、この発言を支えている気持ちというのは想像できる。それはつまり、「自分は民主主義的な手続きを経て選ばれているのだ。なぜその自分が決めてはいけないのか」という気持ちですね。非常に稚拙なものです。しかし、これは想像できなくはない。

 この発言に反映されている気持ちは、民主主義を背景にした、権力の制限への反発として位置づけることができるでしょう。そして、まさしく、民主主義を背景とするこのような権力の暴走を抑えるために立憲主義という考え方があります。

 簡単に言うと、民主主義的な手続を経たとしてもできないこと、やってはならないことがあるという話です。例えば、人種差別を合法化するような法律を、民主主義的な手続を経てつくることは一応できますけれども、それは憲法で否定されてしまうわけです。

 だから、たとえどんなに民衆が望んでも、憲法の決まりによって「それはだめです」と言われることがある。民衆が〈下から〉権力を作り出すのが民主主義という仕組みであるとしたら、それに対して、「そこまではやってもいいけど、これ以上はだめです」と権力に〈上から〉制限を課してくるのが立憲主義という仕組みであるわけです。

 憲法学者の長谷部恭男先生が『憲法とは何か』(岩波新書)の中で立憲主義を、広い意味と狭い意味の二つで説明されています。

 広い意味では、立憲主義とは「法の支配 rule of law」である。つまり、誰かが支配するんじゃなくて、法が支配するということですね。この意味では立憲主義は古代ギリシャにもあると言えます。

 他方、こちらの方が一般的な用法だと思いますが、狭い意味では、硬性の憲法典で権力に制限を課すという思想や仕組みを指しています。こちらの方は長谷部先生が『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)の中で分かりやすく説明されていますのでいくつか引用してみましょう。

 「民主的な手続きを通じてさえ犯すことのできない権利を硬性の憲法典で規定」しておく(62頁)。つまり民衆がどれほど望んだとしても、この権利だけは侵されませんということをあらかじめ憲法で規定しておく。

 長谷部先生がおもしろい例を挙げていて、これは、飲み屋に車で行ったとき、「飲んだら帰りはきちんと代行を頼むから」って言っていたとしても、念のため車のカギは酒を飲まない人に預けておく、そういう発想である、と。

 もうすこし引用しますと、「民主的手続きが、本来、使われるべきでない目的に使われれば、きしみが生ずることは明らか」(61頁)。だから、「民主主義が良好に機能する条件の一つは、民主主義が適切に答えを出しうる問題に、民主主義の決定できることがらが限定されていること」(41頁)である、と。

 つまり、長谷部先生の考えでは、民主主義で決めるべきことと、民主主義で決めるべきでないことがあるということになります。民主主義によって決めるべきでないものは、カギを預けるように憲法であらかじめガチッと守っておく。

〈上から〉の制限に対する、〈下から〉の反発

 さて、こう考えていくと、立憲主義と民主主義というのは、なんとなくボンヤリと重ねられて「大切なものだ」「守るべきものだ」と思われているわけですが、そこにはある種の対立があることになります。

 両者は別に矛盾しているわけではありませんが、しかし確かに異なった方向性を持っている。したがって、「立憲民主主義」というのは近代が見出した大切な仕組みですけれども、そこには難しい問題が内蔵されています。立憲主義と民主主義はいったいどういう関係にあるのかという問題です。これはとても解決されたとは言えない問題です。

 この問題にどう答えるにせよ、立憲主義そのものの重要性は揺るがないでしょう。ところが、「私が最高責任者」発言のように、政治家が非常に素朴な発想で立憲主義を蔑ろにするようなことをし始めているので、これが現実の政治に関して問われるようになってきたわけです。

 しかも、先ほど述べたように、「私が最高責任者」発言というのは、立憲主義的な〈上から〉の制限に対する〈下から〉の反発と捉えることができるわけですが、現在は、この〈下から〉の反発が猛烈に強くなっている。この現象は、憲法に関してのみならず、いろいろなところに見いだせると思うんです。ある種のエリート主義的なものに対する〈下から〉の反発。僕はこれを現代版の「反知性主義」と呼んでいいかなと思っています。

 例えばいま文科省が進めている大学改革が大変な問題になっています。国立大学の人文社会系と教員養成系について、「組織の廃止」、「社会的要請の高い分野への転換」を積極的に進めていくという発表があって、関係者に衝撃を与えました。たとえば国立大学の文学部なんかは潰すということです。

 昔だったらこういうとんでもない案は、「おまえら役人には俺たちのやってる高尚な学問の意義はわからないだろうな」というような、上から目線の対応で大学が斥けてきた。大学には大学の論理がある、大学の自治がある、そういう議論で斥けてきた。

 けれども、今の大学改革は、これまでの〈上から目線〉の大学の態度そのものに反発して行われているんです。「高尚な学問とか言ってこれまではごまかされてきた。しかし、これからは誰でも分かるように業績を点数で評価して公表しろ。そういうことができない分野なら国立大学にはいらない」という感じですね。

 大学改革の話はここまでにしますが、とにかく今の政権や今の社会の雰囲気というのは、これまであった〈上から〉の規制に対して、〈下から〉怨念をぶつけるように反発している感じだと思うんです。それが「俺は民主主義的に選ばれているんだ。俺が決めて何が悪いんだ」という立憲主義的なものへの反発にも現れている。反知性主義的な反発ですね。

 そうすると、僕は立憲主義っていうのは非常に大切なものだと思いますけれども、今の状況に対して、上から目線で「立憲主義が大切」と説き伏せようにしても、怨恨混じりの下からの反発っていうのをむしろ増長するだけではないかという感じがするんです。僕なんかも本当にそういう態度に出たくなってしまいます。「あいつらは何も分かっていない」とバカにしたくなってしまう。でもそれではダメだと思うんです。

 ここで課題は二つあると思います。

 一つは、どうしてこういう怨恨混じりの反発が、いま、ここまで強くなっているのかを見極めることです。そのためには、戦後日本、戦後民主主義をもう一度考え直すことが必要になるでしょう。こういう政府、こういう世論を作り出したのが戦後日本だったのだという問題意識をもってこの70年を再検討することです。

 もう一つは、現在力をもっている怨恨混じりの反発に「民主主義」の名を語らせてはいけないということです。民主主義を単なる下からの反発に貶めてはいけない。立憲主義との緊張関係の中で民主主義を育んでいかねばならない。

 もちろん、「民主主義を育む」と口で言うのは簡単であって、それは非常に困難なことです。僕自身は制度の面からこの問題を考えていて、『来るべき民主主義――小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎)という本の中では、議会を政治制度の中心に置きつつも、そこに「強化パーツ」としての様々な制度を足していき、立法のみならず行政にも市民がオフィシャルに関われるようにするという提案をしました。これは僕なりの提案です。

 もちろん、こうして勉強会をしていくこともとても大切です。また最初にお話したことですが、そうした機会が十分に得られるよう、政治的イシューについて誰もが萎縮せずに話しができる環境作りも必須です。

 さて、ここからは今日の話のエピローグになるんですが、最近、僕はこの件について考えながら戦前のドイツに強い関心をもつようになったんです。1918年から33年までのワイマール期、そして33年にナチスの独裁体制が確立され45年の壊滅まで向かう、この激動のドイツですね。第一次大戦で負け、なし崩し的であったが革命が起こる。共和国は非常に先進的と呼ばれる「ワイマール憲法」を作ったが、結局その中から、たった14年でナチス体制が生まれてきた。

 この二つの時期っていうのは、現代日本のことを考える上で非常に参考になると思うんです。それにはいろいろな理由がありますけれども、一つはワイマール憲法のことです。

 この憲法の特徴は大統領に非常に大きな権限を挙げているところです。ドイツ国民はまだ議会制民主主義になれていない、だから、大統領に強大な権限を与えておかないと政治がうまく機能しないだろうという考えからそうした憲法が作られました。

 つまり、非常に先進的と言われた憲法ですけれども、その中心部分には民衆に対する不信があった。大統領の権限で最も有名なのが48条の規定する緊急令というものです。ナチスはこれを悪用しましたけれども、それ以前から、これがどんどん活用されていた。

 議会がうまく機能しないものだから、緊急令で法律を制定するということが繰り返されていたのです。議会自身が授権法という形で閣僚などに権限を委譲することも日常茶飯事でした。つまり、ワイマール期は早い段階から、議会で話し合って立法するという過程が蔑ろにされていた。それが、事実上、ナチス独裁を準備していく。

 ナチスの独裁というと、おどろおどろしい怪物のような独裁者が社会を支配しているというイメージを抱くと思うんですが、それでは事態を見誤ります。というのも、あの独裁とは何だったかというと、具体的には、内閣、すなわち行政が正式な立法機関になるということだったからです。

 1933年1月にヒトラーが首相に就任しますが、その直後にナチスは全権委任法という法律を通します。これをもってナチス体制が確立されたと一般に言われますが、この法律はどういうものだったかというと、内閣に正式な立法権を与える法律だった。行政が正式に法律というルールを決められるようになったのです。

 これは独裁が確立された決定的な瞬間でしたが、しかし、先ほど述べたように、議会が立法権を行使せず、大統領や閣僚に権限を委譲してしまうということはワイマール期に繰り返されてきたことでした。その意味で、議会が立法権という権限を保持することに一生懸命でなかったことが、こうした法律を招き寄せる遠因だった。

 僕は何でもナチスになぞらえるというのはイヤなんですが、やはりどうしても気になってしまう。今回は内閣が「解釈改憲」という形でルールを勝手に決めた、勝手に変えたわけですよね。ナチスの経験から得られる重要な教訓というのは、行政が立法できるようになることほど恐ろしいことはない、つまり、行政自身がルールを決められるようになることほど恐ろしいことはないということなんです。

 憲法や法律は、行政という統治機構に様々な制限を加えています。行政はいつもそうして課されるルールを気にしながら、「これはできるが、あれはできない」と考えて業務を行っている。

 ですから行政にとって、憲法や法律というのは自分たちを縛る厄介な存在です。その意味では、行政の側が「自分たちでルールを決められたらなんと楽であろうか」と考えても不思議ではない。ナチスというのはそれを本当に実現してしまった体制であり、その意味で「行政の夢」を体現してしまった体制なのです。

 近代の政治哲学は、行政が立法権を握るととんでもないことになると分かっていましたので、権力の分立ということを大切な原則としてきました。今回の「解釈改憲」と呼ばれる事態は、行政が勝手にルールを決める、勝手にルールを変える、しかも憲法という最高法規に関してそうしたことを行っているという意味で、やはり憂慮せざるを得ないことであるわけです。

 しかも、そうした政府与党が一定の支持を得ているわけで、そのことを心配されている方も多いと思います。日本の有権者に対して不信感を持っている人も少なくないでしょう。でも、僕がワイマールのことを勉強しながら思ったのは、どんなにひどいことになるかもしれないとしても、やはり民衆を信頼しなければならないということです。

 もちろん、信頼した結果、こんな酷い事態になってしまったということもあり得ます。でも、民衆を信頼せず、大統領に強大な権限を与えておこうとか、そういったことすると、もっとひどいことになる。

 僕は民主主義には間違いなく危うさがあると思っています。最初にお話ししたことですが、民主主義が怨恨混じりの反発という形で吹き出し、立憲主義を蔑ろにすることもある。ポピュリズムの危険性もずっと問題にされてきています。だからこそ立憲主義がある。

 けれども、その上で、民衆を信じるということができなければ、最後には酷いしっぺ返しを食らうことになるのではないか。もちろんこれは仮説です。しかし、むしろ今こそそう言うべきなのではないか。いまそうしたことを考えています。

 すこし時間をオーバーしましたけれども、これで最初のお話とさせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)

●國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。哲学者。高崎経済大学准教授。早稲田大学政治経済学部卒業。2006年、東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻博士課程単位取得満期退学。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『来るべき民主主義――小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)など。

*この原稿は、2014年8月31日、東京・国立市公民館で開かれた「『図書室のつどい』 哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」(國分功一郎氏、木村草太氏)の講演をもとに構成したものです。
*このあとは、木村草太さん(憲法学者)の講演、國分さんと木村さんの対談を配信していきます。

筆者

國分功一郎

國分功一郎(こくぶん・こういちろう) 哲学者、高崎経済大学准教授

1974年生まれ。哲学者。高崎経済大学准教授。早稲田大学政治経済学部卒業。2006年、東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻博士課程単位取得満期退学。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『来るべき民主主義――小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)など。