中島岳志、若松英輔 著
2014年10月23日
批評家の若松英輔氏と、政治哲学者の中島岳志氏との「対話」を収録した一冊だが、発言者の若松英輔、中島岳志という固有名が意識された本ではない。著者二人の名前から読者の注意を逸らそうとしているのは、構成と本文デザインからも感じられる(実際に手に取ってお確かめください)。
『現代の超克――本当の「読む」を取り戻す』(中島岳志、若松英輔 著、ミシマ社)
本書が光を当てるのは、「読む」という行為が孕む可能性・創造性、あるいは読みながら深められる「対話」のすがた、である。
クローズアップされる「対話」には様々な層があり、必ずしも生きている者同士のそれに限らない。
親鸞の『教行信証』は「死者・法然との共著だったのではないかと思う」と述べる中島氏、「プラトンの哲学は、死者であるソクラテスとの不断の対話」だった、というアランの言葉を引く若松氏に明らかなように、死者の言葉を「読む」行為も「対話」である。いやむしろ本書では、生者よりも死者との「対話」のほうが強調されている。
しかし、ただ死者の言葉を読めば、それがそのまま「対話」となるのではない。
柳宗悦の『南無阿弥陀仏』を論じながら若松氏は、「柳を批判することは簡単です。しかし、柳と向き合って話すには勇気がいる」と語る。「勇気がいる」が肝である。
書かれた文字を目で追い、そのなかに論点の矛盾や欠点を見出して批判することは、ある意味では「簡単」なのだ。そうした批判をすることが「読む」ことではない。一対一で、勇気――言い換えれば緊張感――をもって「それを書いた者と出会い、対話する」。それこそが「読む」ことであり、その地平で初めて「読む」ことと「対話」がイコールとなる。副題にある、取り戻そうとされる「読む」地平とは、まさにこの「対話」の場所である。
異なる意見をたたかわせる「討論」は起こっても、「本当の意味での『対話』はなかなか生まれない」のが現代だ、と若松氏は言う。中島氏は、ガンディーの「非暴力」思想には「他者を受け入れる姿勢」が組み込まれており、そうした思想は「暴力を伴うような前のめりな運動よりも、大きな力を生み出し」た、と述べる。
「対話」としての「読む」行為を追求する両氏が、「対話」を「討論」と峻別し、受け身であることに積極性を見出すのは当然でもある。ところが私自身を含めた今どきの読者は、わかりやすいからという理由だけで、あからさまな意見の対立のほうを欲してしまいがちだ。
しかし、「対話」のない討論や、はなから他者を受け入れぬ異論をいくら読んでも、自らの立ち位置を見定められるはずもない。その意味で若松氏の次の言葉は、一見当たり前に思えても、胸に強く響く。
「物事に賛成、反対の意見を述べることは自由です。しかし、自分たちが何に賛成し、反対しているのかを慎重に考えることなく、意見を述べることだけが先行するところに、解決の糸口は見出しづらい」
本書が「対話」を通して、近代の知が喪失したものを拾い上げていく過程でぶつかる現代の喫緊の問題――iPSをはじめとした先端科学技術や原発、憲法やTPPなど――に向き合うとき立ち返るべき原点も、上の言葉のなかにあろう。
最後に、言うまでもなく本書のタイトルは、悪名高いとまで形容されてきた座談会「近代の超克」に由来する。「悪名」というイメージに囚われず、一語一語と「対話」しながら「読む」ことができるのか、それはむしろ読者一人ひとりの力にかかっているのだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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