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フランソワ・トリュフォー特集が到来!(7)――『夜霧の恋人たち』の<絶対的な愛>についての補遺、手紙の音声化など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 今回は引き続き、『夜霧の恋人たち』の<絶対愛>のテーマについて述べよう。また、本作におけるその他の注目すべきトピックにも触れたい。

 映画の冒頭でアントワーヌが読みふけるのは、ロマンチックな絶対愛を描いたバルザックの『谷間の百合』(1835)――モルソフ夫人への主人公フェリックス青年のプラトニックな“酷愛”が主題――である。

 そして、アントワーヌが靴屋の社長夫人ファビエンヌ・タバール/デルフィーヌ・セイリグを相手に実現しようとするのは、まさにこのバルザックの小説が描く理想的な絶対愛であり、その証拠に彼は夫人宛ての手紙にこう書く――「ほんの束の間、わたしたちのあいだに何かが芽生えるのではと夢見たのです。(……)でも、その夢も消えるでしょう。『谷間の百合』のモルソフ夫人を愛するフェリックス[……]の愛が不可能であるかのように。さようなら」。

 この手紙を受け取ったファビエンヌは、意外な反応を見せ、アントワーヌに一度限りという“契約”で身をまかせるが、ともかく、アントワーヌのファビエンヌへの絶対愛は、『谷間の百合』のモルソフ夫人への主人公のそれと異なり、文字どおり「一瞬の夢のように」終わる(むろんそれが「理想的な絶対愛」である以上、それは冷めたのではなく封印されたのだ。作中でアントワーヌは、ファビエンヌを「アパリション/幻の女」と呼ぶが、フランス語のアパリション<apparition>には、超自然的な「亡霊」、「(霊的なものの)出現」の意味もある)。

 もっとも、この場面でのファビエンヌ/セイリグは、若い男に恋愛および性愛の手ほどき/「感情教育」をする年上の女性という点では、バルザック的――ひいては19世紀フランス文学の伝統的――なヒロインとして描かれるといえる。

 「感情教育」とは、やはり19世紀の文豪フローベールの小説のタイトルだが、その作品でも、青年フレデリックは年長のアルヌー夫人に恋をしながら、さまざまな恋愛修業/感情教育を積む。しかも、『感情教育』でフレデリックが最初にアルヌー夫人を目にする瞬間は、「それはひとつの幻/アパリションのようだった」と書かれる。

 アネット・インスドーフは前掲『フランソワ・トリュフォーの映画』で、あの「絶対愛」にとりつかれた謎の男が、アントワーヌのカリカチュア(戯画)であると述べている。

 すなわち、クリスチーヌを尾行するくだんの奇妙な男は、現実へと引き戻されたアントワーヌが愛読していた『谷間の百合』の描く絶対愛を――時代錯誤的な滑稽さで――信奉しつづけるがゆえに、アントワーヌのカリカチュアと化しているのだ。そうインスドーフは論じる。大胆な解釈だが、言われてみればなるほどと納得する“深読み”である。

 インスドーフはまた、<書く>というすぐれてトリュフォー的なモチーフが、本作ではアントワーヌがクリスチーヌとファビエンヌに愛を告げる<手紙>として、きわめてユニークに描かれる点を巧みに論じている。

 たとえば冒頭まもなく、アントワーヌがクリスチーヌに1週間で19通もの手紙を書いた点を挙げ、彼の「極端な性格」が示唆されるという(私はアントワーヌを「手紙魔」と呼びたい)。

 そして本作の最大の見どころの一つ、前述のアントワーヌがファビエンヌに、今はなきプヌマティック/気送速達便で愛の手紙を送るシーンを、インスドーフは詳細に分析・記述している。

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