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高倉健のイメージは「美化」されすぎた

古賀太 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)

 ここ数日の高倉健の訃報報道を見聞きしながら、どこか居心地が悪かった。

 新聞の見出しには「寡黙」「哀愁」「男の優しさ」(朝日)「不器用に 優しく」(読売)「寡黙に愚直に」(日経)といった言葉が並んだ。それらは、昭和の頃に理想とされたマッチョな「男の美学」という感じがした。昔流行(はや)ったCM「男は黙ってサッポロビール」ではあるまいし。

高倉健さん=2000年高倉健さん=2000年
 そもそもこの10年ほどは、亡くなった親しい人の葬式に出ずに後日墓参りをするとか、撮影で知り合った普通の人々とも交流を続けるとか、聖人のごとく「美談」ばかりが伝えられてきた。

 亡くなる前から「恥ずかしがり屋」で「誠実」な神話が完全にできていたように思う。私にはまるで作られた虚構の神話的イメージを壊さないように、日常生活まで無理して演じているようにさえ見えた。

 そのうえ、亡くなったのが11月10日なのに発表が18日というのも腑に落ちなかった。1週間も隠して密葬などすべてを済ませてから一斉に公表するという完璧さが、これまた高倉健の自己演出のようでもあった。

 ある映画関係者は、安倍首相から衆院解散が決まるまでは発表を控えて欲しいという要請が東映首脳にあった

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