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[書評]『考える日々 全編』

池田晶子 著

佐藤美奈子 編集者・批評家

「考える」ことが奪われた時代だからこそ「考える」  

 遠くまで出かける必要も、膨大な資料を博捜・通読する必要もない。この場に居ながらにして、世界の見え方を変える方法がある。その方法とは、「考える」ことである。

 本書の著者である池田晶子(1960-2007)は、専門知識や学術用語に頼らず素手で「考える」姿を示すことで、人にとって本質的かつ根源的な問いへと読者をいざない続けた。本書は1998年から2000年までの約3年間、「サンデー毎日」誌上に連載されたエッセイを、新編集により一冊にまとめたものだ。

『考える日々 全編』(池田晶子 著 毎日新聞社) 定価:本体2700円+税拡大『考える日々 全編』(池田晶子 著 毎日新聞社) 定価:本体2700円+税
 時事的な話題を素材に論じながら、最初の刊行から約15年後の現在にますます鋭く突き刺さってくる内容である。それは、本質に向けて発せられた著者の言葉が時代や流行による制約を受けていない証拠だろう。15年前にも読んだ私自身、その思いを強くする。

 「考える」ことが世界の見え方を変えるとは、具体的にはどういうことか。

 連載時に社会的関心が高まっていたこともあって、本書で言及される回数の多い脳死・臓器移植問題を例に、その具体的様相をひとつ紹介してみよう。

 脳死を死と認めるかどうかをめぐる議論が継続中だった1998年当時の日本で、「臓器不足」ばかり訴えるマスコミの論調、社会の風潮に、著者は疑問を呈する。その訴え方が「いやらしい」と。

 詮じつめれば、脳死・臓器移植の根底には「自分が生きるために人が死ぬのを待つような」心性があり、その心性を「いやらしい」と感じるのだ、と著者は言う。

 しかし、「誰もが深いところではそう感じて」いても、「ケチだ、エゴだ、愛がない」と思われるのを恐れて口にできない。同時に、臓器をもらう側の患者(と家族)にとっては、移植を「受けないと死ぬぞ」という医師の言葉が「脅し」のように響くであろうことも容易に想像できる。

 つまり、医師と患者のあいだに働く力関係を無視して、たんに患者がエゴイズムのみで臓器を求めている、とも言い切れない。

 さらに、臓器を提供する人(と家族)の立場で考えると、彼らの「善意」は疑えない。

 しかしその「善意」についてもう一段階考えを深めるなら、「人が生きることはそれ自体で善である」という「前提」が無ければ、臓器を提供する行為が善だと実は言えないことに気づく。「生存それ自体=善」が「前提」になるかどうかは個々あるいは状況により異なるのに、それが規範もしくは社会通念として行きわたっている事態も、同時に見えてくる。

 また、善行は、規範や通念に則った時点で「偽善」に陥るのだから、臓器を提供する側にあると思われている「善意」も、言葉として正確でないことがはっきりする。

 ここに至り、脳死・臓器移植問題が「問題」たるゆえん――「人が生きることはそれ自体で善である」という通念を医療者も医療を受ける側も無自覚に共有していること――に行き着く。

 臓器移植=善の図式は成り立たなくなり、次なる問いに向かわざるを得ない。

 善とは何か。生存とは何か。死とは何か。それらを問う前に生存それ自体を善だと信じて疑わない心性はどこから生じるのか。……。……。自明と思いこんでいる事態や事柄の底が抜けていく感じを覚えませんか。

 本書の問いはほかにも、自明なものとして扱われがちな概念に亀裂を入れていく。それは、問いを発する主体としての「私」であり「自分」であり、「お金」、「生活」、「人間」、果ては「存在」そのものである。

 自明の裏側に回り込んで「現在」を眺め始めると、世界は変わって見えてくる。著者に導かれ、この大宇宙に浮かぶ「存在」という謎を垣間見てしまった気がして、なぜだか私は読了後、呵呵大笑した(本当に、なぜだろう)。

 経済至上主義、生命至上主義、情報至上主義が加速する現代は、「考える」ことが奪われた時代だとも言える。みんなが「考える」ようになり、物事の本質がクローズアップされては困る人がいるのも事実だろう。

 しかしそのような時代だからこそ、一人ひとりがいま・ここに沈潜し「考える」行為が閉塞に風穴を穿つのだし、池田晶子の「考える」言葉は、いっそう輝きを増すのである。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

佐藤美奈子

佐藤美奈子(さとう・みなこ) 編集者・批評家

1972年生まれ。書評紙「図書新聞」で記者・編集者をつとめた後、2008年よりフリーランスに。現在、講談社などで書籍編集・ライターの仕事をし、光文社古典新訳文庫で編集スタッフをつとめる。自身の読書の上では吉田一穂、田村隆一といった詩人の存在が大きい。「死と死者の文学」を統一テーマに「古井由吉論」「いとうせいこう・古川日出男論」(各100枚)を『エディターシップ』2、3号に発表。