杉田敦・川崎修 編著
2014年12月25日
意欲的な大学の教科書が登場した。かつて萩原朔太郎は、学生にとって教科書は「宇宙において、これほどにも乾燥無味の書物はない」が、「さうでないと言ふ日が来るであらう。彼等にして学校をやめ、今一度、試験の心配なしに読んだならば!」と、喝破した(『虚妄の正義』)。
そのせいかどうか、本書は教科書にしては面白すぎる。
『西洋政治思想資料集』(杉田敦・川崎修 編著 法政大学出版局)
具体的には、古代ギリシャから現代まで57人の思想家を、それぞれ第一線の研究者が1人ずつ横組2ページで解説し、その後で代表的な原典を、2または4または6ページで邦訳から引用(もしくは執筆者訳で)、紹介している。
「よくある本じゃん」と、早合点する読者もいるだろうが、そうではない。
解説がすべて2ページで完結しているから要点を概観しやすく、その後の引用文も全て2の倍数ページだからアタマに入りやすい。
そもそも文字だけの本で(図版で調整せずに)、全員をA5判2ページ、およそ2000字という同一スペースで解説するのは至難(無謀?)のはずで、その成果として、採り上げた思想家の今日的意義と研究者の力量が、一目瞭然になっている。
引用の仕方にも、巧拙が出る。
いらしたじゃないですか、学生時代、オハナシは面白いのにレジメの作り方がヘタで、引用文と講義内容とが必ずしも一致しなかった先生方が。
本書でも、それは歴然。解説は立派だが、その次のページの原典の引用理由がはっきりしない執筆者もいれば、その逆で、解説と引用のバランスが抜群で、担当した思想家についての全ページが放つ集約力、発信力が途方もない充実感を与えてくれる執筆者もいる。
とくに、編者を兼ねた杉田敦氏と川崎修氏の担当ページは、熱い。フーコーとアレント。前者は、『監獄の誕生』の引用を踏まえて、現在ますます説得力をもつ「権力の動機づけ」の要点を教え、後者は、『全体主義の起原』の引用から、これまた今日的課題である「多くの人間を一人の人間」にしてしまう組織的テロルの脅威の構造を示す。
高山裕二氏のトクヴィル、権左武志氏のヘーゲル、野口雅弘氏のウェーバーも、刮目して読んだ(何を今さらという方もいるでしょうが)。岩崎稔氏のルナンも刺激的だ(「国民国家」のきわどさ)。一方、執筆後に故人となった清末尊大氏のボダンと、今村仁司氏のソレルは、それぞれ(主著とは別な意味で)貴重なページだろう。
だが本書の最も意欲的な点は、アレントだけでない女性たちの項目。
18世紀に女性の権利を説いたウルストンクラフトで一項目(執筆は中村敏子氏)、また、ボーヴォワール、ミレット、バトラーの3人を、例外的に「第二波フェミニズム」としてまとめ、紹介している(執筆は岡野八代氏)。しかも、ウルストンクラフトはバーク(執筆は犬塚元氏)の直後、第二波フェミニズムの3人はハーバマス(執筆は齋藤純一氏)の直後で、掉尾を飾る。
その結果、思想史のドラマ、いやダイナミズムに導かれつつ、政治を考える際の様々な偏見の所在に、あらためて気づかされる。
言ってしまえば、《政治思想》とは、研究者や政治家のための特殊な商売道具ではなく、いかに我々一般人の平凡な欲望の産物かということ、さらに、政治のありかたを論じるときに今なお、いかに(無意識的に)性的な支配関係を前提としやすいかということを、説得力のある的確な引用が、明らかにするのである。
充実した内容だけに、相当な紆余曲折があったと想像される。
あとがきの「編者の力不足と出版社の編集体制上の不備」から「当初の予定よりはなはだしく遅延」という一節には、粛然たる気分になる。
しかし、部外者がかってなことを言わせてもらえれば、アジアで最初に《西洋化》を成し遂げたはずのこの国で、《政治とは何か》がある意味で最も激しく問われた2014年に本書が刊行されたのは、偶然とはいえ実に示唆的に思えてならない。
フーコーを概説した杉田氏は、こう、しめくくっている。「しかしどのような権力も、行使されている側の協力なしに維持できない以上、どんな権力のもとでも、それに抵抗し、それを変える自由へのきっかけは常にある」。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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