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[22]第5章「夢見られた学園(4)」

暴力におおわれた時代

菊地史彦

 70年代の「学校嫌い」は、まず「校内暴力」として現れた。旋風のように全国の中学や高校で吹き荒れ、80年前後にピークに達した。

 特に激しかったのは中学校で、窓ガラスをたたき割ったりする器物破損に始まり、生徒や教師に対する暴力行使へ発展し、無法地帯のようになった中学校もあった。

 1980年秋、新聞には、神奈川県南足柄市立岡本中、横須賀市立武山中、尾鷲市立尾鷲中、京都市立向島中、仙台市立西多賀中、四日市市立常盤中、川崎市立桜本中など、連日のように校内暴力の記事が載った。

 中でも9月27日、三重県尾鷲市立尾鷲中学校で、制服36人、私服15人の計51人の警官が学校の要請で校内に入り、中学生24人を検挙したという記事は人々の目を引いた。

 授業をさぼっていた生徒16人に教師が注意したことに端を発し、20余人の生徒が5人の教師に暴行を加え、授業中の2教室にも乱入した。

 ついで、校長を交え、6人の教師と20余人の生徒が話し合っている最中に、灰皿が落ちて割れ、「脅かす気か」と激昂した10人の生徒が椅子を投げ、殴りかかり、校長室に難を避けた教師が引き出され、止めに入った教師7人も暴行を加えられた。

 この時来校していた教育長が、警察に出動を要請したとされている。負傷した教師は3人、後に書類送検された生徒は24人に達した。

先生が暴力常習の生徒の胸を、ポケットに持っていた果物ナイフで刺して、10日間のけがをさせるという事件が起きた東京都町田市立忠生中学校の玄関ホール1983年拡大先生が暴力常習の生徒を果物ナイフで刺してけがをさせる事件が起きた東京都町田市立忠生中学校の玄関ホール=1983年
 1981年、校内暴力はさらに広がった。

 件数は、42.8パーセント増の1728件に上り、被害を受けた者3800人、補導された者9023人で、その9割は中学校で起きていた。

 目立ったのは教師に対する暴力で、2.1倍の649件に達し、被害を受けた教師もほぼ2倍増の816人に達した。

 81年をピークに、82年以後、校内暴力は減少に転じる。

 危機感を持った学校側が、軽微な非行を早期に摘発し、厳しい処分を行うようになったからだ。学校と警察の連携も今まで以上に緊密になり、暴発しそうな生徒をあらかじめ抑え込んだ。

 警察庁の発表によれば、1983年3月に卒業式を行った全国1万758校の中学校のうち、生徒の暴力を警戒するために警官が立ち入った学校は1225校に上り、周辺のパトロールを実施した学校が587校あった。警察庁は、立ち入りのあった学校の7割は、学校側からの要請だったと報告している。

 つまり、暴力を行使したのは、生徒たちだけではなかった。

 70年代の後半から、一部の学校では、強圧的な管理主義をもって生徒を押さえつけ、まるで全体主義を思わせるようなやり方で、行動と思考の統制を図るようになった。

 「西の愛知、東の千葉」といわれたように、両県ではことに過激な管理教育が行われた。

 ルポルタージュ作家の鎌田慧は、当時、その現地へ赴いて、学校関係者に取材し、『教育工場の子どもたち』(1983)を書いた。そこに描写された学校はたしかに、後に鎌田が書いたとおり、「悪夢としかいえない状況」を呈していた。しかも、その「悪夢」を紡ぎ出す学校は、急速に全国へ広がっていったのである。

 そこに共通する特徴は、ランダムに挙げると次のようなものだ。

 ・細部まで標準化された教科指導プロセス
 ・日常的な体罰、問題生徒への暴力的制裁
 ・校内外の行動の細部におよぶ厳格な校則
 ・校則違反を取り締まる日常的なチェック
 ・封建主義的・家族主義的な価値観の強要
 ・行進など集団行動による服従意識の形成
 ・戦前の皇国教育を受け継ぐ熱狂的な指導者
 ・生徒会・クラブ活動を通じた自主管理
 ・地元教育大学閥による教師の囲い込み
 ・戦後民主教育批判と日教組系教師への攻撃
 ・長時間残業を伴う教師の労働強化
 ・校長の抜き打ち授業視察などの教師管理
 ・非行行動の早期摘発と退学処分の乱発
 ・企業経営を範とする組織の運営管理法
 ・整理・整頓された、歓声も笑いもない教室
 ・背筋を伸ばし、廊下を走らない生徒たち

 鎌田は後に、こうした学校が生まれた背景を、70年代後半の受験競争に見ている。

 すなわち、受験競争の激化が「落ちこぼれ」を生み出し、校内暴力や家庭内暴力が頻発するようになって、「それへの対抗策が、『非行防止』と『学力向上』運動だった」というのである。

 そして、この二つのスローガンを掲げた運動は、「ナンバーワン」と称賛された70年代の日本企業をまねて、教師には教科指導プロセスの標準化を求め、生徒には「5S」(整理・整頓・清掃・清潔・躾)を説いた。トヨタ自動車のお膝元である岡崎市で、管理教育が盛んになったのは当然のことだったのである。

 鎌田の分析は明快だが、私は、管理教育の強烈さの原因に、もうひとつ踏み込んでいないように感じる。おそらくそこには、 ・・・続きを読む
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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。