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ゴダール『さらば、愛の言葉よ』にぶっ飛ぶ(中)

未曽有の3D映像、陰毛ショットの衝撃など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 『さらば、愛の言葉よ』の3D映像がもたらす極端な遠近感・立体感・奥行き感は、まったくもって驚きだ。

 手前と奥の両方に焦点が合っていたり、手前の被写体だけがフォーカスされ、それがグッと迫(せ)り出し奥がピンボケになったり、ときにフレームが斜めに傾いたり、被写体が二重化されたりアングルが異様に低くなったりするので、見る者はたえず不安定に変化する遠近法の中に放り込まれつつ、スクリーンを凝視せざるをえない(ハリウッド製のマンネリ化した3D大作とは真逆に、本作では物語が不可解なぶん、よりいっそう、奇妙に変化しつづける遠近感を伴うショットの連続に、いやおうなく引っぱり込まれる。また2Dで撮られたショットも、3D映像に負けず劣らずクリアに“決まって"いるが、このような3Dの野放図な駆使も、本作の"処女作性"の印象を強めている要素のひとつだ)。

ジャン・リュック・ゴダール=2002年ジャン=リュック・ゴダール=2002年
 そうした本作の3Dマジックについて、鈴木一誌は、「スクリーンの手前に映る木の枝や葉が浮きだし、前列の客の頭よりも手前に届いて見えて、ぎょっとする」と書くが、まったくそのとおりだ(鈴木一誌「ゼロの光景『さらば、愛の言葉よ』と3D」、『ユリイカ――特集ゴダール2015』、青土社、2015年1月号)。

 いっぽう堀潤之(ほり・じゅんじ)は、本作のゴダールらが、樹木、花畑、葉叢(はむら)、水辺などの自然の風景を(多くの場合、手持ちカメラで)とらえた箇所において「[……]、絵画的ともいいうる質感が積極的に追及されているように見える」、と述べ、こう続ける。

 ――「[本作で]ゴダールたちはあたかも絵筆を持ち替えるように、各種のデジタル機器を持ち替えているのだ。[……]最後の方で[は]ゴダール自身の手がパレットで水彩画をかき混ぜるさまが映し出されるが、それらの挙措は[……]デジタル映像の新たな視点が模索されている[ことを示しているかのようだ]」(「ゴダールのデジタル革命と動物のまなざし――『さらば、愛の言葉よ』の3D映像をめぐって」、前掲『ユリイカ』所収)。

 これまた共感をそそる、優れた論考である(そういえば『気狂いピエロ』<1965>の頃から、ゴダールがさまざまな絵画を被写体にしたことも想起されるが、『パッション』<1981>では、レンブラントやゴヤの絵を人物で再現しようとする<活人画>がテーマだった)。

 堀氏はまた、「[本作では]特に前景に配置された物体が確かな存在感でもって見る者に迫ってくることで、[……]ほとんど触知可能であるような強烈な物質感を帯びた映像がわれわれに与えられる[……]」、と述べる(同前)。

 堀氏のこの評言どおり、たとえばふたりの女優、エロイーズ・ゴデとゾエ・ブリュノーの裸体が発する濃厚な質感、<リアルさ=そこに確かに存在している感じ>は圧倒的だ。

 まさしく、ごろんと無造作に投げ出されたような彼女らの裸体は、なんとも質感豊かに、文字どおり、手を伸ばせば触(さわ)れるほどに官能的に――煽情的にではなく――写し取られていて、息をのむ。やや逆光ぎみの翳(かげ)った画面の中で――3D映像でも2D映像でも――、全裸の、あるいはパンツ一枚の彼女らは、量感たっぷりの乳房や腰や尻や陰毛を惜しげもなく晒(さら)し、性的興奮とは異なる官能の高まりを見る者にうながす。

 とりわけ、やや年長のエロイーズ・ゴデ/ジョゼットのこんもりと生えた陰毛が印象深い。

 そこで低く響くカメル・アブデリ/ジェデオンのモノローグめいた声がふるっている。彼はこう言うのだ――「アパッチ・インディアンのチリカワ族は世界のことを森と呼ぶ」、と。

 ちなみに堀氏によれば、イヴィッチ役のゾエ・ブリュノーは、企画段階でゴダールと面会したとき、陰毛を脱毛しているかと尋ねられたという(!)。

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