安田峰俊 著
2015年03月12日
東日本大震災の後、多くの取材者が現地に行き、様々な経験を持ち帰ってきました。おかげで貴重な記録も多く残されました。
でも、ただ前からの思い込みや偏見を強化して帰ってきただけの人も、残念ながら何人も見てきました。
以下、3年前のある取材者との会話です。
「俺も警戒区域に入ったけれど、被ばくなんて大したことなかったよ。体調に変化ないし」
「よかったですね。でも一概にそうは言えないでしょう」
「いや、体に良いくらいだって。広島で原爆から生き残って、かえって健康になった人も知ってるし。そういうもんだよ」
そんな人も実在はするのでしょう。ですが一般論として平気で語れるとは……。縁戚に原爆症で苦しみ亡くなった人間もいる広島出身者としては、いま思い出しても腹が立って腹が立ってもう、という感じです。
ですが他人事ではありません。いくら取材者であっても、人はともすれば「見たいもの」しか見なくなってしまう。
私自身も被災地に行ってはきましたが、東京で「自分が見たかったもの」だけを語ってはいないだろうか。なんだか怖くなってきて、あまり自分の経験を人に語れない、ハタから見るとただのボンヤリしたオジサンができあがったわけです。
ところが本書『境界の民』の著者・安田峰俊氏はそういう意味で、確実に信用できる取材者です。
『境界の民――難民、遺民、抵抗者。国と国の境界線に立つ人々』(安田峰俊 著 KADOKAWA)
かなり腹をくくって、「見たいものだけを見て、語る人」に対してケンカを売っているからです。
ケンカを売られているのは、たとえばこんなことを語る人です。
〈かわいそうな難民が母国に帰りたがる理由がわからない〉
〈抑圧された少数民族と日本人は連帯して、中国に対抗しよう〉
〈グローバル人材だからって変な服着てる奴、使えないよな〉
〈どっかの国で地震? 死者が少ないんじゃニュースにもならないよ〉
一見すると「アリ」な気もする言説です。私もついそんな風に考えてしまいそうです。
ですが安田氏によれば、立場をひっくり返して考えれば、これらはすべて下記のような「日本人の傲慢」の表明とも考えられるのです。
〈母国が民主化されたら自分のルーツを見に行きたい、という難民の思いなど想像もしていない〉
〈少数民族は世界中から支持を集めたほうが有利なのに、全員が中国に敵対したがると妄想〉
〈グローバルな環境で育った人間が、日本のカイシャ特有のドレスコードに通じていると甘える〉
〈同朋の死者について、自分たちだけが敏感に反応すると安易に考える〉
こうしてみると、いかに私たちは恥ずかしい思い込みをしていることか。安田氏は、こうした思い込みを覆しながら、難民二世、名前を出せないウイグル人、無国籍者、軍閥の孫など、現代史に翻弄された「境界の民」たちをフラットに取材します。
目的は、彼らの「本当に大事にしているもの」を、私たちに伝えること。
ところが取材の過程では、安田氏もつい「見たいものだけを見る」誘惑に負けそうになって失敗することもあります。
準備されたストーリー通りのコメントを引き出そうとしている、と取材対象者に警戒されて、せっかくのインタビューがよそ行きの会話で終わってしまう場面も書かれています。
しかしそんな失敗も正直に記してくれるおかげで、本書は私たちを「思い込み」から解き放つための誠実な試みだ、と実感することができるのです。
1982年生まれの安田氏は、私たちオッサン世代が(あるいはその前の、保守革新それぞれの陣営の人たちが)、外国やマイノリティーに勝手に「見たいもの」だけを投影してきた恥ずかしい歴史を、よく知り抜いているようです。
そのうえで、どうして私たちが「親日国の人々は歴史認識も日本人と同じ」みたいなダメな思い込みをしてしまうのか、丁寧に解きほぐしてくれます。彼はそうすることで、「見たいものだけを見たりはしない」自分たちの世代のノンフィクションを打ち立てようとしているのでしょう。
ということで、真っ当な取材をし真っ当に語るノンフィクション作家の登場を、語れずにボンヤリしたままのオッサン代表として、素直に「語らせて」いただきました。
『境界の民』、何かを見て語りたいと思ったことのある人は、すべて必読です。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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