ひとりでないと いっしょになれぬ
2015年03月25日
芝居を見終わったあと、ぼくはその週の初めに出会った、『コミュニティ難民のススメ――表現と仕事のハザマにあること』(2015年12月、木楽舎刊)の著者アサダワタルのことを思い出していた。
『コミュニティ難民のススメ――表現と仕事のハザマにあること』(アサダワタル、木楽舎)
アサダは、大学卒業後、音楽活動を続けながらアルバイトや契約社員として生計を立てる数年を過ごしたあと、大阪で芸術による社会活動に取り組むココルームというNPOに出会う。
既存の職業範疇では名指すことのできないその働き方、生きざまを、アサダは「僕が“表現者"であることに由来する」と言う。
そして自らの多様な仕事の源を「いまここにある日常を表現(アート)と読み替える視点」と見定め、名刺には、「日常編集家」と刷り込んだ。
彼はまた、自分が「コミュニティ難民」であることを宣言する。
「コミュニティ難民」とは、アサダの定義によれば、“特定のコミュニティに属さず、自らの価値観を表現することと、その表現を社会と摺り合わせて「仕事」という枠組みで実践していくこととのハザマを漂いながら、生き続ける民"である。
アサダは、批判を覚悟で敢えて“難民"というデリケートな言葉を採用して、閉塞した社会を突破する、新しい時代の生き方、働き方を、自ら模索しながら提案し続けているのだ。
「コミュニティ難民」は、譬(たと)えれば、小舟に乗って〈母島〉の〈岸辺〉から飛び出し、アウェーである他の〈島〉で「仕事」をする。常に「一体何者?」と問われながら、公/私、日常/非日常、障害/健常のハザマに留まることによって、そのボーダー自体を消していく。
彼らは、常に「何者」ではなく、「誰」なのである。既存の「肩書き」の枠をはみ出した「仕事」を行うことによって、あくまで目指すところは、自己表現である。
会社、役所など、既存の明確なコミュニティに属さない彼らの「仕事」は、収入面でも不安定だし、「何者」と規定されない存在は、時に疎外感を経験する。
が、
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