小谷野敦 著
2015年04月23日
この世には、読んでどんなに愉快でもつまらない本と、どうにも不愉快だが実におもしろい本がある。読むべきなのは当然後者で、本書はその典型。
『江藤淳と大江健三郎――戦後日本の政治と文学』(小谷野敦 著 筑摩書房)
不愉快なのに、華がある。昭和の或る時期に文字どおり肩を組み、併走し、やがて対立していった大物2人の軌跡を交互に、詳細に描いて、おもしろ過ぎる。読みだしたらとまらない。
一方(本人に取材を敢行した)大江は健在の大作家で、長年小説を愛読した著者の嗜好もあって、江藤ほど容赦ない叙述ではない。評価すべき作品に絶賛も惜しまない。
とはいえ、駄作は駄作と言明する厳正さは見事で、その政治的立場に対しても手きびしい。酒癖の悪さ、或る種の女性観への言及もぬかりない。
また、2人とも雌伏期間は短いとはいえ、それぞれの出生・年少時をじっくり辿り、成年後の志向を予想させる構成も、隙がない。
著者と世代が近い「個人的な体験」を少しだけつぶやくと、昔々、大江を文学の彼方を照らす《巨星》と仰ぎ見つつ、江藤を批評の海の《按針》として引き寄せたこともある。
本書を読むと、うかつに近づくといまだ焼き尽くされそうな《大江巨星》の成分に興奮する一方、《江藤按針》が指し示していた航路の危うさに、暗然とする。
ときに著者は、慶應英文科卒の江藤を、東大英文科卒の研究者として苛酷なまでに睨みつけ、我々をたじろがせるけれど、自らの留学体験と比べる細かい述懐には、苦笑してしまう(江藤は愛妻と2人で、著者は独身で渡航)。
こうしたボヤキのようなツッコミ(小谷野節?)をスパイスと感じるかどうかで、好みは分かれるかもしれない。
しかし賞賛すべきは、多彩で巧緻な引用、同時代の証言とともに描かれる緊張感である。
その手際は、既刊書に批判をもつ読者も、公正に評価すべきだろう。
2人の軌跡に加え、佐藤春夫・西脇順三郎をはじめとする三田系の大立者の相貌や、小林秀雄・埴谷雄高ほか文壇の大看板の発言など、いわば《役者が揃った昭和文学群像》も、これまでの著者の成果が存分に注ぎこまれ、意地悪くねっとり、じゃなく、輪郭鮮やかに活写され、痛快極まりない。
著者は、やがて権威へと駆け昇る江藤の初期の仕事は認めつつ、あまりに若くして評価され過ぎたのが「その後の歩みに災いした」と言う。
そして「家」へのただならぬ自意識をえぐり出す。どう好意的に見ても1.5流止まりの海軍将官だった祖父(江頭安太郎。海大主席卒、日露戦時の大本営参謀ながら中将で待命)と、一銀行員の実父。その格差が、尊大な家族中心史観、あるいは、擬似英国流階級意識をはぐくんだのかと思うと、冷えびえとする。
皮肉だなと思わせるのは、文学賞を数多く受賞し、国を憂い、政権党に親しみ、公的履歴を重ね、園遊会に招かれ、藝術院会員にも選ばれながら、ついに江藤は、国からの賞勲に縁がなかったのに、政権が煙たがる主張をやめない大江への評価は国を越え、ノーベル賞という国際的栄誉を得たこと。
当時、江藤は存命。かつての盟友への海外での喝采を、どう見ていたのか。何しろ江藤という「保守」言論人は、一族が皇族の姻戚に連なったこと(雅子妃は、江藤の従妹の長女)で、かえって「国家的褒章から遠ざけられることを危惧していた」(p.309)というのだ。
大江が描く「滅亡」「終末」が彼の「性的興奮」の所産とする結論には、異論もあるだろう。だが、ここに至るまでに繰り返し示される、家族の事情や現代史の闇に挑む深刻な主題と、度胆を抜く(ときに脱力感に陥る)ユーモアの兼備こそ、《成熟》を超えた巨星の証なのかとも思う。
そうしたユーモアが、(小説家と批評家との違いを超えて)江藤には欠けていたという裁定に、不気味な説得力がある。なぜなら、最晩年の悲劇が饒舌を排し《粛々と》綴られるから。かかる《喪失》への道もまた、江藤自らの指針が招き寄せたとすれば哀れとしか言いようがない。
一気に読んでしまったが、もう一度読みたい。繰り返すが、たとえ過去の著者の仕事に対し批判的な読者でも、本書の意義は素直に認めるべきだ。巻末には、江藤(1932-99)・大江(1935-)それぞれの充実した年譜もつく。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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