桜井哲夫 著
2015年05月28日
廃墟とは、言うまでもなく日本の戦後の原風景である。
ニューギニア戦で九死に一生を得た水木しげるから始まり、親たちが王道楽土を夢見て大陸に渡り、満洲帝国崩壊で命からがら日本に逃げ帰って、後にマンガ家となった赤塚不二夫、ちばてつや。勤労動員先で大阪大空襲に遭遇した手塚治虫。
廃墟のイメージを抱えながら、戦後漫画を牽引してきたマンガ家たちの奇妙に絡み合った人間関係を、その出会いのエピソードを交えながらつないでいくと、みごとなまでに現代マンガの歴史が立ち上がってくる。
『廃墟の残響――戦後漫画の原像』(桜井哲夫 著 NTT出版)
後に青林堂を立ち上げ月刊誌『ガロ』を創刊した長井勝一は、新天地と喧伝された満洲国にあこがれ、鉱山会社で地図作りをしていたため、戦況をいち早く知ることが出来て、敗戦前に帰国していた。高井研一郎も上海にいたが44年に帰国している。
ソ連軍の侵攻と日本の無条件降伏により、1945年から46年にかけて満洲に住んでいた日本人の死者は18万人以上もいたという。
関東軍は早々に逃走し、家々の略奪や女性への性的暴行も横行し、無法地帯と化した街に、日本人はまさに「棄民」されたのだ。
上田トシコの父親は、ハルピン駅頭で共産党軍に射殺されたと本人から聞いたことがある。
日本に帰った長井勝一は塩釜に疎開するが、8月15日の天皇の玉音放送を聞いて敗戦だと判ると、その日の午後4時の列車で東京に向かったというから素早い。
2日後の17日から、古本屋だった義兄の本を浅草に持って行って売ったら、あっという間に売り切れたという。それで戦前の鉄道地図を義兄が仕入れてきて、バラして売るとこれも完売し、倉庫に残っていたマンガの刷り出しを綴じて売ると瞬く間に売り切れたという。
その後長井は本の取次業をし、赤本ブームに便乗してマンガも出版してひと儲けする。この目端の巧みさが、後に三洋社から青林堂へと事業展開し、『ガロ』を創刊して劇画ブームを牽引していくことになる。
現代マンガにとっての手塚治虫の存在は絶大である。手塚の出世作となった『新宝島』をめぐる酒井七馬との相克については、手塚自身の証言への疑念も含めて、これまでも諸説が展開されていた。それらを対照させながら、この作品がその後のマンガ家に与えた衝撃の大きさを、小松左京、安孫子素雄、赤塚不二夫らの証言から浮かび上がらせる。
小松もモリ・ミノルのペンネームでマンガを描いていた。そして手塚は、モリ・ミノルの登場に脅威を感じていたとも言う。著者は、手塚の『ロストワールド』や『来るべき世界』などに濃厚な廃墟の記憶を見る。そしてまた、小松左京も廃墟に取りつかれた青年だったという。
白土三平の誕生には、父親のプロレタリア画家・岡本唐貴の存在を外すわけにはいかない。拷問死した小林多喜二の死面をデッサンし、自らも拷問にあった影響で脊椎カリエスを病み、信州に疎開後の農作業もままならず、白土は弟と二人でそれを担う。
白土が、紙芝居に関わるきっかけも、父親の友人関係からだった。唐貴のプロレタリア美術運動に絡み、懐にピストルを潜ませ『無産者新聞』の非合法活動をしていた黒澤明のエピソードは、初めて知った。
白土は、紙芝居仲間だった牧数馬の紹介により、『こがらし剣士』でマンガ家デビューする。これに目を付けたのが、長井勝一である。長井と白土の出会いが、後の『ガロ』の創刊につながっていく。
戦後早い時期のマンガ少年たちにとって、『漫画少年』は憧れの投稿雑誌であった。戦前の『少年倶楽部』編集長で、公職追放中だった加藤謙一が、妻の名義で学童社という出版社を作り、創刊した雑誌である。
ここへの投稿者の中から、寺田ヒロオ、赤塚不二夫、石森章太郎、藤子不二雄他、数えきれないくらいたくさんのマンガ家が誕生している。この学童社に、たまたまマンガ家の石田英助の住所をたずねに来た手塚治虫が、そのとき持っていた『ジャングル大帝』の下書きを見て、加藤は『漫画少年』への連載を依頼する。
加藤謙一の次男で新婚早々の宏泰が入居したアパートが、椎名町にあったトキワ荘であり、宏泰の紹介で大阪から上京してきた手塚は、その二つ隣の部屋に住む。
その後、やはり宏泰の紹介で寺田ヒロオも入居し、手塚に会いに来たのがきっかけになって、藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎らの『漫画少年』投稿仲間も、つぎつぎと越してきて、今日いわれるところのトキワ荘伝説が生まれる。
評者は、手塚治虫を担当していたころ、手塚のお供で、当時『めくらのお市物語』で人気絶頂だった棚下照生の結婚披露パーティーに行ったことがある。お相手は、テレビドラマでお市役を演じていた松山容子であった。
そのとき、手塚と劇画系列の棚下とがどのような関係なのか不思議に思ったが、棚下は寺田と『漫画少年』の入選仲間で、寺田は棚下に促されて新潟から上京してきたのだとこの本で知った。
後に「劇画」の名前を打ち出した辰巳ヨシヒロも、『漫画少年』の投稿仲間であった。宝塚在住当時の手塚宅をたずね、4コママンガを見せたところ「4コマでは発表の場がないから、ストーリー漫画を描きなさい」と助言されたという。
辰巳が中心になって、佐藤まさあき、桜井昌一、山森ススム、石川フミヤス、K・元美津、さいとうたかをらが、「劇画工房」を発足させるのが1959年である。この人脈に、つげ義春も関わってくる。
この年、『週刊少年マガジン』と『週刊少年サンデー』が創刊されて、マンガも月刊誌時代から週刊誌時代に移行し、若手の活躍の場が拡大する。
敗戦による廃墟のイメージとその残響を、パッチワークのようにつなげていくと、戦後マンガを担ったマンガ家たちの物語が鮮やかに浮かび上がってくる。
それはまた、現代マンガ発達史でありマンガ家交流史でもある。『ガロ』に対抗して、手塚が創刊した『COM』の独特な路線と、そこから誕生した作家や作品への目配りもいい。
廃墟の残響は、滝田ゆう『寺島町奇譚』、永井豪『バイオレンスジャック』、山上たつひこ『光る風』、大友克洋の『童夢』『AKIRA』などなど、綿々とつながっていく。
著者はいう。「津波による各地の廃墟は、次第に時間とともに消えて行くかもしれない。だが、原発事故後の原子炉の廃炉には、数十年の時間が必要となる。今後数十年にわたって福島第一原子力発電所の『廃墟』は消えてなくなることはなく、われわれの日常の中にある」と。
こうしてわれわれは、現在の廃墟と向き合うのだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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