魚川祐司 著
2015年07月09日
三省堂書店のサイトで、「仏教」「入門」をキーワードに検索してみたら、228件ヒットした。おそらくこのうち1冊も読んでいない私は、本書が他の入門書と比べて、どこが特徴的でどこが優れているかはわからない(などと堂々と書くことではないですね。勉強不足ですみません……)。
類書との比較はできないが、たとえば、最近読んだ、ガリレオシリーズ最新刊の『禁断の魔術』(東野圭吾、文春文庫)と比べても、おもしろさに遜色なく、ほとんど一気読みの勢いだった。
『仏教思想のゼロポイント――「悟り」とは何か』(魚川祐司 著 新潮社)
本書の痛快さは、読んでいてまったく救われないところにある。
仏教は、「人間として正しく生きる道」を説いていると思われがちだが、それは冒頭できっぱり否定される。
ゴータマ・ブッダは出家を重視し、弟子には「労働と生殖の放棄」を要求する。「現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して、『異性とは目も合わせないニートになれ』と求めている」のだ。
ゴータマ・ブッダが説くのは「世の流れに逆らう実践」であって、仏教に処世の知恵や癒しを求めた人は、まず出端を挫かれることになる。
最初で救われないだけでなく、大方の読者はおそらく最後まで救われない。なぜか。
仏教では「全ての現象は苦である」と言われる。ここでの「苦」とは、痛みや悲しみなどの肉体的・精神的な苦痛だけではない。そのニュアンスを正しく汲み取れば、「不満足」の語が適切で、「欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかないという事態」を意味する。
(私は、チョコとポテチを一口だけ食べて満足することはなくて、食べれば食べるほど、また食べたくなる感じとか、お洋服を1着買えば、色違いも欲しくなり、それに合う靴も欲しくなり、バッグも欲しくなるときの、とめどない感じとかを反芻しながら読みました)
このような「生」きている間の苦の先には、「老」「病」「死」という、誰にでも必ず訪れる苦が待ち受けているのだが、それでは終わらない。
仏教の基盤になっているのは輪廻転生の世界観で、私たちは何度も生まれ、何度も死ぬ。その間「終わりのない不満足」は、ずうっと繰り返されるのだ。
それを終わらせてくれるのが「解脱」であり、その先にある境地が「涅槃」。そこに到達する道が修行(瞑想)である。
ゴータマ・ブッダは自らそれを実践し、解脱し涅槃に到達したうえで、弟子たちに対して、「これをやれば、お前たちも苦を終わらせることができる」と、正しい鍛錬の仕方を示した。
そして弟子たちがそれを実践してみると、たしかに言われたとおりの結果が出た。そのような再現性こそが、仏教は2500年にもわたって存続してきたことの原動力になっている。
方法があると書けば、救いはある、と思われるかもしれないが、解脱・涅槃に至る道は、ただ一つしかない。すなわち、異性と目も合わせないニートになって、ただただ瞑想すること。
私が、今回の人生において、これから修行者の道を選ぶことはまずないから、私が決して満たされない欲望に苛まれ続け、「苦」のうちに生を終えるのも間違いない。
そんな己の末路をはっきりと見通せてしまったことの、なんて痛快なこと。そして、縁起とか業とか無常とか無我といった、これまで難しそう・めんどくさそうと遠ざけてきた概念が、どこでどう繋がっているのかがわかり、この世界の成り立ちが鮮やかに説明されることの、なんという快感!
もちろん本書はたんなる入門書ではなく、「ゴータマ・ブッダは輪廻を説いたのか」といった日本の仏教思想上の論点(だそうです、本書によれば)にもきっちり挑んだ、仏教に造詣が深い人にとっても、十分に刺激的で読み応えのある本なのだと思う。末木文美士さんや佐々木閑さんや宮崎哲弥さんという錚々たる方々が推薦していることから、それは明らかで、私なんかが言うまでもない。
むしろ私など、本書の良さを10分の1も理解しておらず、100分の1も紹介できていないかもしれない。だとしても、本書のおもしろさは十分にあまりあり、「ジャンルを問わず本を読んで新しいことを知る・わかるのが好きな人」に、強く、全面的に、一読をお薦めしたい。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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