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[書評]『政岡憲三とその時代』

萩原由加里 著

野上 暁 評論家・児童文学者

そうだったのか! 日本のアニメの原点と人脈 

 日本に最初にアニメーションが紹介されたのは、1912年に浅草帝国館で上映された、アメリカのパテ社の『ニッパールの変形』だったと言われている。

 これがどのような作品であったかは不明だが、その3年後の15年には21本のアニメが輸入されたと記録に残っているという。その中の、イギリスのアームストロング社の作品に『凸坊新画帳』というタイトルが付けられ、それからしばらくの間、日本で公開されたアニメは『凸坊新画帳』と総称されるようになる。

 いま考えると、冗談のように思えるが、後に線画漫画とか漫画映画という言葉が登場するまで、これが通用していたというから笑ってしまう。

 その後、日本の国産アニメが登場するのは1917年になってからである。

 下川凹天、北山清太郎、寺内純一という、いずれも漫画家が、5年前に移入されたアニメに刺激され、見様見真似で相次いでオリジナル作品を制作発表している。

 最初のアニメが日本で紹介されて間もなく、京都で作られたアニメがあったようだが、それはまだ作品の体をなしていなかったため、とりあえずいまのところは、1917年が国産アニメの誕生とされている。

 ではなぜ、政岡憲三が「日本アニメーションの父」と呼ばれているのか。

『政岡憲三とその時代――「日本アニメーションの父」の戦前と戦後』(萩原由加里 著 青弓社) 定価:本体3000円+税拡大『政岡憲三とその時代――「日本アニメーションの父」の戦前と戦後』(萩原由加里 著 青弓社) 定価:本体3000円+税
 著者はこれまでのアニメ研究の成果を踏まえ、政岡の功績として以下の3点を挙げる。

 (1)日本のアニメ界で、初めて本格的なトーキーアニメを手掛けた。(2)いち早くセル画を取り入れたことによって、紙で描いて切り抜いたものを使って動かすなどの、それまでの製作過程を一新して、人物の動きを自在にした。(3)アニメーションの日本語訳として「動画」という言葉を提唱した。

 この本は、日本アニメの父と言われながらも、これまで知られていなかった政岡の足跡を綿密に辿る。戦後の政岡がアニメから遠のいた頃の仕事や、テレビアニメ時代になってからも後進の育成に多大な影響を与えたという隠された事実をつまびらかにし、今日の世界に広がる日本のアニメの原点に迫ってみせる。

 政岡の実家は、幕末に四国から大阪に出て海運業で財を成し、祖父の代には土地の買い占めや鉄道への出資をはじめ、さまざまな分野に出資して莫大な資産を持っていた。

 長男であった憲三が、家業を継がないで漫画映画の世界に足をつっこむことが可能だったのは、絵描きにあこがれていながら家業を継ぐために画家への道を断念せざるを得なかった父親の影響が大きかった。

 父親は、早々に家業を娘夫婦に譲り、隠居生活に入って大阪画壇や京都画壇で学び、絵画制作に没頭しいくつかの作品を残している。

 1898年生まれの政岡憲三は、京都市立美術工芸学校と絵画専門学校で日本画を学び、卒業後はマキノ映画に入社。1925年に衣笠貞之助の前衛映画『日輪』の美術監督のような仕事をする。

 その後、27年には自ら児童向け映画『海の宮殿』を監督し、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」をイメージした場面などを挿入し話題になる。

 さらに、マキノプロに客員として入り、俳優デビューもしているから、資産に物言わせて、京都を舞台にまさにやりたい放題の道楽を楽しんでいた。

 しかしその道楽こそが、政岡アニメの個性を屹立させたと言えよう。そして政岡は、自宅をスタジオに政岡映画美術研究所を立ち上げ、1930年にアニメ映画『難船ス物語』を制作する。

 1932年、上京した政岡は、松竹蒲田撮影所の所長だった城戸四郎と会って、トーキー漫画映画の契約を結ぶ。そして政岡は、日本初のトーキー漫画映画『力と女の世の中』を制作する。

 政岡の画期となったのは、1943年に公開された『くもとちゅうりっぷ』である。この年、瀬尾光世による海軍省に依頼されたプロパガンダ漫画映画『桃太郎の海鷲』も封切られる。

 瀬尾は政岡に弟子入りしたことがあるので、師弟関係にある。同じ年に公開された政岡の作品が芸術的と評価されたのに対し、瀬尾の戦時プロパガンダアニメは、戦後に至って評価は極端に分かれる。

 政岡はつぎつぎと新作を発表するが、瀬尾はその機会に恵まれず、瀬尾太郎(せおたろう)としてマンガや挿絵の世界に生きることになる。

 1945年に公開された瀬尾の『桃太郎 海の神兵』(松竹映画)などは、戦前につくられた唯一の大長編アニメで、封切り日に見た手塚治虫が大感激した作品であったにもかかわらず、敗戦後全てが廃棄され、幻の作品とされていた。

 しかも、松竹の社史には作品名が掲載されていても瀬尾の名前は記されていない。作者も消されていたのだ。オリジナルフィルムが松竹大船撮影所で発見されて日の目を見たのは、1982年になってからだ。

 戦後の政岡は、東映動画の前身で後進を育成し、その後はアニメの世界を離れ、瀬尾と同様に漫画や挿絵や絵本の世界に活路を見出すが、1963年に手塚のテレビアニメ『鉄腕アトム』のヒットがきっかけになって、テレビアニメ時代になった時、政岡がかつてアニメーター養成用につくった撮影技術論が手塚の虫プロダクションなどでも活用されたという。

 政岡にあこがれてアニメの世界に入った森康二(もりやすじ)、東映動画で森の薫陶を受けた高畑勲や宮崎駿などなど、政岡の第二世代、第三世代が日本のアニメを牽引してきている。

 この本は、立命館大学に提出した博士論文をもとにしたものだという。かつては大衆的な子ども文化として、学術研究対象になるなど予想さえされていなかったのに、漫画やアニメ研究が博士論文として取り上げられる時代になったのは隔世の感がある。

 この本で取り上げられているが、瀬尾光世(瀬尾太郎)にしても、プロレタリア美術からプロキノを経て、召集猶予と引き換えに『桃太郎の海鷲』や『桃太郎 海の神兵』を任され、戦後は幼児雑誌や絵本の世界に身を潜めた。その生涯なども、若き研究者がたどってみて欲しいと願う。

 いまや世界でも注目されている日本のアニメの歴史には、まだまだ秘められた物語がたくさん眠っている。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

筆者

野上 暁

野上 暁(のがみ・あきら) 評論家・児童文学者

1943年生まれ。本名、上野明雄。小学館で子ども雑誌、児童図書、文芸書、学術書などの編集部門を担当。著書に『おもちゃと遊び』(現代書館)、『「子ども」というリアル』『日本児童文学の現代へ』(ぱろる舎)、『子ども学 その源流へ』(大月書店)、『越境する児童文学』(長崎書店)など。 編著に『子どもの本ハンドブック』(三省堂)、『いま子どもに読ませたい本』(七つ森書館)など。日本児童文学学会会員。日本ペンクラブ常務理事。