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[書評]『大江戸商い白書』

山室恭子 著

奥 武則 法政大学教授

数量分析で浮かび上がった商人の実相  

 山室流データ歴史学の新たな成果である。

 データ歴史学なんて言葉はない? いや、データジャーナリズムのアナロジーである。

 データジャーナリズムは、ビッグデータなるものにさまざまなフィルターをかけて解析し、斬新な解釈を提示することを目指す。調査報道の一分野と言ってもいいが、ネット社会の中に大量に集積されているオープンソースのデータの存在が先行することが肝心である。

 むろんジャーナリズムにせよ歴史学せよ、データは不可欠だ(歴史学で言えば、経済史の分野が、その典型である)。しかし、ここはあえて、データ歴史学と呼びたい。

 優れたデータジャーナリズムが凡百の調査報道と一味違う成果をもたらすように、山室流データ歴史学もオープンソースの(つまり、だれでもアクセスできる)データを扱いつつ、さまざまなフィルタリングを施し、斬新な解釈を提示している。

 対象は、江戸の町の商いの様相である。

『大江戸商い白書――数量分析が解き明かす商人の真実』(山室恭子 著 講談社) 定価:本体1600円+税『大江戸商い白書――数量分析が解き明かす商人の真実』(山室恭子 著 講談社選書メチエ) 定価:本体1600円+税
 著者が使ったオープンソースのデータは、『江戸商家・商人名データ総覧』全7巻(田中康雄編、柊風舎、2010年)である。

 江戸の町で活動した商人について145種類の名簿を収集し、屋号・名前・住所・業種・年次だけでなく、わかる場合は商売の権利である「株」の移動についても記している。

 貞享元年(1684年)から明治5年(1872年)まで、屋号・名前順に並べられたデータの総数は7万4000件というから、すごい。

 もっとも「オープン」(私の勤務先の大学図書館にも「参考図書」として収まっている)だからといって、データをデータ歴史学として使えるようにするのは簡単ではない。

 著者は「伊勢屋」「万屋」「越後屋」という、際立って数が多い3つの屋号を選び(全体の12.3パーセント)、1件ずつデータを入力し、3939人分の履歴を記した個票データを作成した。

 屋号・名前が同じ人物も少なくない。住所や業種を逐一検討して人物を特定する作業も簡単ではない。パソコンに向かうこと半年。データジャーナリズム同様、ちゃんとした成果をあげるためには、データ歴史学にも手間暇がかかるのだ。

 膨大な個票データをもとにさまざまなかたちで数量分析を行い、著者は次々に新しい発見に至る。

 江戸の商家と言えば、代々暖簾を守っている老舗を思い浮かべがちだが、何と平均存続期間は15.7年に過ぎない。暖簾を守るどころか、営業権である「株」の移動の実態を見ると、譲渡が半分で、相続は1割に満たないことも分かった。

 江戸の商家の世界は、武士と違って血縁相続ではなく、非血縁原理による継承が支配的だったのである。

 個票データに加え、江戸切絵図という補助具が使われる。個票データの住所を切絵図にプロットしていった。ここでも新しい発見があった。全域型・特化型・地域型と著者が名付けた商店のタイプである。

 商人たちは多くの場合、同業者組合を作る。さらに組合を細分化して、「番組」と呼ぶグループが編成される。江戸の町にもっとも多い舂米(つきまい)屋(玄米を精白して小売する)や炭薪(すみまき)仲買などの場合、番組は地域割りがされて、店舗は江戸全域にある。これが全域型。

 一方、番組を編成しているものの、所在地はそれぞれ特定地域に集中している特化型がある。典型は札差だ。3つの組がいずれも浅草の蔵前周辺に集中している。武家の俸禄米を換金する商売がメインだから、俸禄米が分配される蔵前に店がないと不便なのだ。

 最後の都心型は、番組編成はないケースが多く、あってもごく限定的である。日本橋周辺の繁華街に立地している薬種問屋、呉服問屋などがこの類型に入る。

 マクロな数量分析だけでなく、著者は江戸の町をミクロに見ることも試みる。

 史料に名の残る何人かの商人(豆腐屋、肴屋、両替商、髪結)だけでなく、町奉行(あの「遠山の金さん」)、勘定奉行、老中も登場する。描かれるのは、天保12年(1841年)の株仲間解散から嘉永6年(1851年)の問屋復興に至る時期のドラマである。このあたりは著者独特のポップな文体が冴えを見せているというべきか。

 データ歴史学の成果に目を見張りつつ、数量分析を進める際の推論に疑問を持ったことがないわけではない。

 たとえば、髪結沽券金高を「人口のいわば代理変数」として使った人口分布の推論。沽券金高というのは沽券状の額面のことだから、ストレートに髪結の営業利益といえるのだろうか。日本橋地域の髪結同業組合の沽券金高総計が図抜けて高いのは、この地域の地価と関係しているのではないだろうか。

 もう1つ。個票データのもとになった145種の名簿の中身が気になる。データの25パーセントが嘉永4年(1851年)の『諸問屋名前帳』によることにはふれられている。だが、その他については、「株仲間が仲間内で作成した名簿、公儀が統治のために作成した商人名簿、あるいは買い物客のために民間で作成された名店ガイドブックなど多様な性格の史料群」としか説明がない。

 「多様な史料群」は当然、精粗があろうし、網羅性もさまざまだろう。そのあたりは数量分析を進めるうえで、どう考慮されたのだろうか。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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