異様にさえ思えた巨大な頭脳の働き
2015年08月06日
私が鶴見俊輔さんに出会ったのは、私が20歳で鶴見さんが44歳のときだった。
飯田橋駅から数分のところにあった雑誌「思想の科学」の編集部で、1966年のことだから49年前のことになる。ずいぶんと昔のことにも思えるが、つい先ごろのようにも思える。
それから私は思想の科学研究会で学び、鶴見さんにさそわれて雑誌「思想の科学」の編集委員になり、編集代表にもなった。鶴見さんを経由して「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」に行って、吉川勇一さんと小田実さんにも会った。それから10年間もベ平連その他の市民運動の政治活動をしていた。
鶴見さんも吉川さんも小田さんも、私たちの年上のリーダーにして年上の友人でもあった人びとは死んでしまった。
と書くと「オレはまだ生きているぞ」と言う人の顔が浮かぶけれどね。順番だからしょうがない。
私は69歳になっていて、少し若いが順番がまわってきてもおかしくはない。人間だから死ぬことは確実で、ところがいつ死ぬか不確実で、人間はその確実と不確実の間を生きている。
鶴見さんが亡くなったという知らせを受けたのは、妻と二人の孫とそして私で、自宅からクルマで3時間半の北カリフォルニアの山奥のファミリー・キャンプにいる時だった。
それは舗装道路からはずれてクルマが波の上のボートのように上下するデコボコ道と、砂ぼこりがまきおこる道路を30分走った後に急にあらわれる美しい農場で行われていた。
電気はあったが携帯電話は使えない。衛星をつかったインターネットは1日1時間、朝の9時から10時の間だけ使える。黒い電話機が1台オフィスにはあって、それを使えば衛星経由で「下界」の一般電話につながるとは聞いていた。
ファミリー・キャンプ最終夜の9時ごろ自分のキャビンで休んでいて何気なくスマートフォンを手に取ると、ノーティフィケーションの画面に1行「鶴見俊輔さんが亡くなりました」とあった。
息子からのテキスト・メッセージだった。午後4時に届いている。何かの間違いだと最初は思った。私は1日に1回、朝の9時から1時間しかインターネットに繋がらないところにいるはずだ。
キャビンをでて暗い山道を下り、広場のキャンプファイヤーまで行って、孫といっしょにいる妻に俊輔さんが亡くなったことを知らせた。
それからまたひとりで山道を下って、オフィスのある築100年の大きな家に向かった。午後の4時にそこの横を通った時にWiFi(インターネット)がつながったのだとすれば、いまでもつながるかもしれない。
突然に鹿が2匹、真っ暗な山道にあらわれる。昼間だと山道で出会っても、鹿はすぐに離れて距離をおいて横目で私たちを観察しているのだが、暗闇からフラッシュライトの光の中にあらわれる。驚かすなよなあ。この辺にはクマはいないので安心だけど、ガラガラ蛇に関してはコーヒー・ルームに写真が貼ってあって注意をよびかけている。
オフィスの建物のそばに行ってもインターネットはつながらず、結局なにも分からない。俊輔さんが死んだことだけが1行のテキスト・メッセージでわかっているだけだ。
もっとも俊輔さんが数年前に病気になって以来、私たちは俊輔以後について覚悟していた。
私が死んだらこうしてほしい、と俊輔さんは
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