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[3]細密描写の冴え、自己物語化について

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 『絶歌』にあって、Aの非凡な文章力・観察力・記憶力が最も顕著に表れるのは、前回引用したような、自意識過剰な自己分析的な記述にではなく、空間/場所や人間の表情・身体の動きなどにまつわる、即物的な描写においてだ。

 つまり、自らの<内面>よりも、対象の<外面=外形>の記述においてである(診断によれば、Aは一瞬目にしたものの細部を、写真に撮ったように鮮明に記憶できる特殊能力者=直観像素質者であるという。映画批評家としては実に羨ましい能力だ。なお<自意識過剰>とは、「自分が他人にどう見られるかを意識しすぎること」)。

 第一部で、Aのそうした突出した記憶力と描写力が全開するのが、彼の猫殺しが常習化し、それによって性的興奮を覚えるようになる一連のくだりだ(60頁以降)。

 具体的な猫殺しの緻密きわまりない描写は、あまりに酷くて引用する気になれないが、アメリカンショートヘアのネコの外観はこう書かれる――「全体をシルバーグレイの毛が覆い、細くしなやかな身体のそこかしこにアクセントをつけるように、部族的トライバル・タトゥ―を思わせる左右対称のエッジの効いた黒いストライプ模様が走っている。野良猫とは思えぬほど毛並みは艶やかで、なだらかな曲線を描くハート型の小さな顔に埋め込まれた七宝焼きのような一対の眼はいちばん下が琥珀色、その上にエメラルドグリーン、最後に黒い瞳が載った三色構造で……」(60頁)。

 こうした細密描写は、「文学的」あるいは「サブカル」的というより、すぐれて<小説的>なものだろう。

 この一連の猫殺しとそれにともなう射精の描写ののち、Aの性的嗜好をめぐる自己分析的な記述がつづく。

 「そうやって僕は知らず知らずのうちに、死を間近に感じないと性的に興奮できない身体になっていた」(65頁)。「『死を理解するため』というもっともらしい大義名分は消え去り、ただ[猫を」殺して解体することが快感だった」(69頁)。「中学に上がる頃には猫殺しに飽き、次第に、『自分と同じ“人間”を壊してみたい。その時にどんな感触がするのかこの手で確かめたい』という思いに囚われ、寝ても覚めても、もうそのことしか考えられなくなった」(69~70頁)。

 そしてこうした記述に、悪評高い、フロイトや様々な小説への、また自分の事件について書かれたノンフィクション、評論などへの、いくぶんブッキッシュ――書物からの受け売り的――な言及が混じる。また、多くの小説、マンガ、映画、歌詞、そして自らが事件後に描いた手記も引用されている。

 ライター、リサーチャーの松谷創一郎は、『絶歌』第一部のそうした他人の著作の引用や参照の多さを、「各表現ジャンルの文脈を無視した上で恣意的になされたチープで“サブカル”的」と批判し、

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