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[書評]『活動的生』

ハンナ・アーレント 著 森一郎 訳

木村剛久 著述家・翻訳家

赦す力と約束する力 

 アーレントの主著『人間の条件』は、1958年にアメリカのシカゴ大学出版会から英語で出版された。日本では志水速雄訳で1973年に中央公論社から出版され、1994年にちくま学芸文庫の1冊となった。最初の出版からは60年近くが経過している。だから、すでに古典といってよい。

 ところが、1960年にアーレントは自著のドイツ語版訳を出した。アーレントにとって、ドイツ語はもちろん母語である。そのさい、訳文には大幅に手が入れられ、加筆もなされ、タイトルも『活動的生』と変更された。

 本書は、そのドイツ語版をもとにした新訳で、これまで難解とされてきたアーレントの考え方が素直に頭にはいるようになった。今後はこの『活動的生』が、アーレントの主著として、日本でも読み継がれていくことだろう。

『活動的生』(ハンナ・アーレント 著 森一郎 訳 みすず書房) 定価:本体6500円+税『活動的生』(ハンナ・アーレント 著 森一郎 訳 みすず書房) 定価:本体6500円+税
 正直に白状すると、『人間の条件』は、あまりの難解さに途中で挫折した経験がある。

 今度の『活動的生』を曲がりなりにも最後まで読み切ることができたのは、なめらかな訳文のおかげだろう。

 楽しい読書、はらはらする読書、ためになる読書というのとはちがうかもしれないが、読み終わったあとは、山頂をきわめたときのような達成感がある。たまには挑戦する読書もいいのではないか。

 それにしても『人間の条件』と『活動的生』とでは、あまりにもタイトルの印象がちがいすぎる。

 タイトルの付け方はむずかしい。著者も編集者も最後まで頭を悩ませることが多い。

 人間の条件といえば、わかりやすいけれど、人間の本質はこうであって、だから、こう生きなくてはいけないという倫理性のようなものを感じさせてしまう。ところが、アーレントの言わんとしているのは、どうもそういうことではなかったらしい。

 ドイツ語版をもとにした本書では、人間の条件は、人間の被拘束性と訳されている。人は生まれたときから死ぬときまで、国であれ、世間であれ、家族であれ、何かに拘束されて生きている。だから、そのなかで、どうやって生きていくかという実存の問題が生まれる。

 人間は網の目でできた世界のどこかに生まれてきて、その網の目をたどりながら、みずからの糸をくりだし、死にいたるまで人生の物語をつくっていく、とアーレントは想定している。

 したがって、生きるとは、この網にからまっている自己が、そこから出発して、みずからの模様をつくっていくことでもある。アーレントが社会主義を含めて全体主義を批判するのは、それがこうした人間の可能性を恣意的にねじ曲げてしまうからである。

 人間の条件にくらべて、活動的生という言い方は堅苦しいし、一見何のことだかよくわからない。もともとラテン語からとられたというこのことばは、活発な生き方というより、慌ただしい生活を指すといったほうがぴったりする。

 いずれにしても、注目すべきはアーレントが、だれもが経験する生活の領域に、哲学の錨を下ろそうとしていることだといってよい。

 生活といえば何を思い浮かべるだろう。家事、仕事、子育て、消費、介護、遊び、睡眠、夫婦・親子関係などなど。どれもが人生にまとわりついてくる。そのなかでもアーレントは労働、制作、行為に焦点を当てる。活動的生は、それらを総称したものだという。

 労働とは、人間がみずからの肉体を維持するために、自然物を生産し、加工して、生活に必要な物質へと変えていく活動を指している。労働によってつくられたものは、ただちに肉体に取りこまれ、消費されていく。

 これにたいし制作は、人工の世界において有用となる物をつくりだす活動をいう。このときつくられる物は、ただちに消費されるわけではなく、人間が長いあいだ利用する対象として残っていく。

 さらに行為は、言論や政治を含む人間どうしのコミュニケーション活動を指すとみてよいだろう。

 労働は生命を維持するために、制作は生命を存続させるために、行為は協力して生命を守るために発揮される活動だといってもよい。

 つまり労働が個体的だとすれば、制作は社会的、そして行為は(広い意味での)政治的な活動ととらえられる。そう考えると、生活は政治や経済などの社会構造を支える下位部門ではなく、むしろ政治や経済が発現する場所だと思えてくる。

 これだけなら、ただの分類といわれても仕方がない。しかし、アーレントのすごいところは、この活動的生を歴史、とりわけ古代ギリシャから現代にいたる思想史全体の文脈のなかでとらえようとしているところである。

 われわれがどこから来て、どこに向かおうとしているのかを、人間の活動を通じて探ろうとするこころみに、正解などというものはない。いま、ここに投げだされているわれわれにアーレントが提示するのは、それがどんな時であり、どんな場所なのかを示す、ひとつの道しるべにすぎない。これから何をなすべきか、それは各個の判断にゆだねられている。

 ところで、60年近く前に出版された本書が古さを感じさせないのは、生きることへの根源的な考察がなされているためだけではない。核や原子力発電、科学技術、大衆消費社会、宇宙開発など、現代に深くかかわるテーマが、随所で論じられている。

 「人間種族はもはや甲殻類の一種に変身しはじめている」という皮肉たっぷりの表現もある。車やスマホ、パソコン、アップルウォッチなどを操っているようで、逆にそれらに操られている現代人を頭に思いうかべると、たしかに甲殻類は言い得て妙である。

 本書を読むと、われわれが古代ギリシャからいかに遠く離れた時空に生きているかを痛感する。アーレントは人が大地から切り離されたこと、信仰と世俗が分離されたことを「世界疎外」と呼ぶ。

 近代人はこの世界疎外を疎外とも思わず、自然を収奪し、カネもうけに奔走し、ひたすら国力の強化に努めているが、冷静にふり返ってみれば、それはかなり異様な光景なのである。

 アーレントは、奴隷によって支えられていた古代ギリシャの観想的生活を取り戻すべきだというわけではない。ましてポリスの公的空間を復元すべきだというのでもない。ただ、アテナイ人が重視していた、政治の根源としての言論(ロゴス)と、始めることの勇気は見習うべきだとしている。それは生活のなかから発するのである。

 アーレントにとって、ナチスの非道は根本悪だった。とはいえ、いったん始められた行為は、とどまるところを知らず、時にそれは取り返しのつかない事態を招く。

 政治、いや人間の行為には、つねにそんな恐さがともなう。それにたいする救済策はないのだろうか。処罰と復讐だけが答えだろうか。不正が不正であったことは、消し去ることのできない事実である。しかし、どこかで赦(ゆる)しがなければ、世界は存続していかない。

 人間には「取り返しのつかなさを埋め合わせる赦し」と、「予測のつかなさを埋め合わせる約束」という能力がある。

 赦すのは愛の力である。約束だけが未来を保証する。一方は赦し、他方は約束をすることによって、世界ははじめて不確実な未来への道へと踏みだすことができる。ここにアーレントの政治哲学の核心がある。いま日本の政治は、いったい何を約束しているのだろうか。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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