物理学徒として、大学闘争にのめり込んでいく凜々しさ
2015年11月18日
1960年代とは、敗戦の年に日清戦争後のことを語るのと同じくらいはるかに昔のことなのだと思うと唖然とする。
60年安保のときに、高校2年生だった筆者にとっては、ついこのあいだのことのように思えるのは、それだけ濃密な時代だったからなのだろうか。
1960年は、安保条約の自然承認と岸信介内閣退陣の後を受けて登場した池田勇人内閣の「所得倍増計画」による、政治の季節から経済の季節への転換点でもあった。
以後、年間10数パーセントという驚異的な経済成長率を記録し、日本人の生活が大きく変化していく。62年3月には、テレビの契約台数が1000万台を突破し、64年の東京オリンピックを前に東海道新幹線が開通する。
60年代は、日本の高度経済成長期であるとともに、それに支えられた教育拡大の時代でもあった。
思えば、そのおこぼれにあずかって、筆者も辛うじて大学に進学ができたのだ。文部省(当時)の統計に寄れば、4年制大学の進学率は、60年の8.2パーセントに対し、65年は12.8パーセント、70年は17.1パーセントと、10年間にほぼ2倍以上増加している。
ちなみに、筆者が大学に入学した62年の進学率はちょうど10パーセントだった。つまり同世代の10人に1人しか大学に進学していなかったのだ。それだけに、当時の大学生の、社会に対する責任の意識や自覚と政治的な関心も、現在では想像できないくらい高かった。
長野県の田舎で、高校3年生のときに60年安保闘争を体験したこともあって、筆者もかなりの政治的な関心を抱きながら2年後に東京に出て中央大学に入学した。そこで、60年代の学生運動の様々な場面に、やや野次馬的な同伴者として立ち会ってきた。
67年に大学を卒業し、神田神保町の出版社に勤めたのだが、近いこともあって学生たちが管理運営権を勝ち取った中大の学生会館にはよく出入りしていた。早稲田大や明大にも行くなど、60年代末の大学闘争や全共闘運動の現場にたびたび顔を出してもいた。
秋田のアジ演説は遠くから聞いて親しみを感じていたが、物理学の大学院生だという山本には近寄りがたいイメージがあった。
握手は、何となくぎこちなさそうに見えたけれども、会場からの盛大な拍手もあって、胸が熱くなった記憶がある。
山本は、大学院を中退した後、予備校教師などをしながら大学教師になる道を選ばず、在野の科学史家として『磁力と重力の発見』全3巻で毎日出版文化賞などを受賞した他にも、多くの著作によって高い評価を得てきた。そして3・11の後には、『福島の原発事故をめぐって――いくつか学び考えたこと』を出版し話題を呼んだ。
東大闘争についてはすでに『知性の叛乱』を執筆しているのだが、あえてまた『私の1960年代』(金曜日)で東大での学生運動体験を語ったのはなぜか。
山本は、回顧談のようなものを公にする気はなかったが、「一○年間の一人の学生の歩みと経験を活字にすることは、今の時代にあって、それなりに意味があるのではないか」と思って本にしたと前書きで記している。
まさに昨今の危機的な状況へのやむにやまれぬ思いが、随所からあふれ出ている。
その意味も込めて、60年安保以降の学生運動の経緯を、自らの体験を率直に織り込みながら時系列的に追ったこの本には括目させられた。
物理学徒として、研究者としての責任感から、東京大学という存在そのものへの疑問を深めながら、次第に大学闘争にのめり込んでいくその姿が凛々しく感じられた。
そしてその時々の国策化されてきた科学技術への問題提起は、まさに「今の時代」を照射する鋭さがある。
山本は、東大に入学して駒場寮に入ったこともあって、全学連主流派のもとで安保闘争に参加する。そしてその敗北後、62年春には物理学科に進学する。
その年、大学管理法(大管法)阻止闘争が起こり、東大の理学部、農学部、医学部などがストライキで立ち上がり、11月30日には60年安保以来最大の5000人が東大時計台前に集合し全都銀杏並木集会が敢行された。筆者もこの日のデモは記憶に残っていて、
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