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[書評]『忠臣蔵映画と日本人』

小松宰 著

松澤 隆 編集者

今後も「真実」は映像化されるのだろうか  

 一気に読んだ。共感、納得、反感、疑問を抱きつつ、読み進んでしまった。本当はこうだという「史実」よりも、あらまほしき映画的「真実」を、秋田在住の文筆家が大真面目に追求した本。赤穂事件本としては今時異色で、異色ゆえに面白い。

『忠臣蔵映画と日本人――<雪>と<桜>の美学』(小松宰 著 森話社) 定価:本体2400円+税『忠臣蔵映画と日本人――<雪>と<桜>の美学』(小松宰 著 森話社) 定価:本体2400円+税
 まず、《共感》。

 第一章は牧野省三から説き起こされるが、章の主役は溝口健二「元禄忠臣蔵」(1941)。大掛かりなセットの割に見せ場が乏しく、評価の分かれる問題作(自分も初めて三百人劇場で観て眠った)。

 歌舞伎が庶民の教養であり、勧善懲悪の剣戟映画が娯楽の王道の時代に、観客に媚びず討入りを描かなかった溝口について、「表現技術を持ち合わせていなかっただけ」と言い切った筆者は立派。

 むしろ、討入り後の浪士の一人と許婚者の内面劇こそ、溝口の真骨頂と評価している。

 次に《納得》。

 終章で説く二つの結論。まず「そもそも浅野はなぜ吉良に切りつけたか」。

 ここで、筆者は史実を重視しない。もちろんこの章にいたるまで、様々な説を作品とともに紹介している。だがその挙句、こう断ずるのだ。日本は昔も今も「救いようのない〈いじめ社会〉」なのだと。

 多くの人はいじめと屈辱の経験者。浅野内匠頭は「現実世界の中では刀を抜くことができない私たち日本人の代わりに刀を抜いて、不合理なもの、無体なものの象徴である上野介に斬り付けている」。ゆえに、刃傷の「史実」よりも人々が求める「真実」として描き継がれてきたのだと。逆転の発想。だが、納得してしまう。

 《納得》の、もう一つの結論。それは、架空の人物・立花左近の逸話に端的に表れる。

 大石は討入りを決意して京から江戸へ下る際、「九條家(または近衛家)用人・立花左近」(または日野家用人・垣見五郎兵衛)と名乗る。公家侍を装うわけだが、東海道の宿場でホンモノの立花(または垣見)と遭遇してしまう。激昂する立花に、大石は黙って「鷹の羽」(浅野家の定紋)を見せる。

 一瞬にして眼前の人物の真意を悟った立花は、自分こそ偽者と身を引く。東映では大石を市川右太衛門、立花を片岡千恵蔵が演じ(1956)、大映では大石を長谷川一夫、垣見を二世中村鴈治郎が演じた(1958)、シビレる名場面。

 この、本筋でない架空の渋い逸話が挿入されてきた理由は、筆者によればこう。

 「日本人は歴史的、社会的に、〈真実を言いたいけれども、言うことができない苦しい立場〉にいつも置かれ」今も「本質的に変わらない」。だからこの逸話は、人気があったのだと。しかもそれは、「日本人がいつも陥ってきた落とし穴」だとも言う。志向と陥穽。理解できるのがコワい。

 一方、《反感》。

 それは、筆者が前著『剣光一閃――戦後時代劇映画の輝き』(森話社)と同じ叙述を、繰り返していることだ。

 『剣光一閃』は副題通り、敗戦後の時代劇全般を論じた好著。同じ筆者が同じ「忠臣蔵映画」を語って同じ結論を導いてもよいけれど、前著第三章と、新著第二章「戦後の忠臣蔵映画全盛時代」は、記述自体が近い。

 鶴田浩二が脱落浪士の毛利小平太を凄絶に演じた松竹作品(1954)を語る箇所など、スチール写真の配置から初鑑賞時の「衝撃」の表明まで、同じ(繰り返し熱く語りたい気持ちは分からないでもない。だが)。

 ここは、1954年から62年まで、日本映画全盛時代の東映3本、松竹2本、大映1本、東宝1本の「忠臣蔵映画」に触れた華のある章。趣旨は変えずとも、表現を変えて論じてもよかったはずと思う。

 そして、《疑問》。

 筆者は、「忠臣蔵映画」は、花の季節に《未成熟な男性》が犯した過ち(刃傷事件)に始まり、雪を背景に《死が確定している浪士たち》の吉良邸討入りに終わる構成自体が、見事に日本人の美学を反映しており、ゆえに愛され、何度も映画化された、と言う。「忠臣蔵映画」は、日頃忘れている「自分の無意識」「ある種の美意識や精神性」を呼び覚ます効果があると。

 確かに、そうだった、かも知れない。だがもう何年も、本格的な忠臣蔵映画は作られてない。「四十七人の刺客」(1994)、「最後の忠臣蔵」(2010)も、到底、上記のような意味での「忠臣蔵映画」ではない(筆者も評価してない)。

 筆者が、時代劇映画の衰退後に目を向けて論じたNHK大河も、かつては「赤穂浪士」(1964)、「元禄太平記」(1975)、「峠の群像」(1982)、「元禄繚乱」(1999)と、趣向を凝らして繰り返し映像化されたが(視聴率も今より遥かに上)、近年は音沙汰なし。

 かりに筆者が言うとおり、「日本人の無意識」の象徴だったとしても、もうそれは「忠臣蔵映画」(大河ドラマを含む)という形式では、この世に現れないのではないのか。

 筆者が熱を帯びて、過去の忠臣蔵映画の名作・傑作の美点を「日本人の無意識」の表明と訴えれば訴えるほど、もうそれは、描かれることのない「真実」なのではないか、と思う。

 不満を少し。NHKを凌駕する配役で放映された三船プロ「大忠臣蔵」(NET/1971)について、言及が少な過ぎる。私見では、本伝も外伝も充実した、これぞ映画衰退期の《最後の傑作忠臣蔵》だった。

 もう1本、全盛時代の「棹尾を飾っ」たと賞している稲垣浩監督「忠臣蔵」(1962)について、《東宝らしさ》の評価が物足りない。しかも「東宝は女優が多い」と書きながら、大石夫人役の原節子への言及が一言もない。原は本作をもって銀幕から姿を消し、今年(2015年)9月、名実ともにスター(星)になったのだ。

 とはいえ、今の時期に忠臣蔵映画(と補助線的な仇討ち映画)を論じてくれたことには感謝したい。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。