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[書評]『解毒剤』

オリバー・バークマン 著 下隆全 訳

井上威朗 編集者

本当に「効く」自己啓発書は存在するのか?  

 私は自己啓発的な話題を扱う雑誌で働いています。

 自己啓発といえば、「読めば目標を達成できるようになります」的な話題を、あの手この手で繰り出す世界だと思われているようです。それどころか、「そんな、読んだだけでうまく行くわけあるかいな。要はウサンクサイ世界やろ」と批判される方も多いでしょう。

 実は私自身もそう思っていましたが、この世界に片足突っ込んでみると、そんな簡単なものではありませんでした。

 自己啓発書、面白いんです。一部のマルチ商法的なものを除くと、多くの本の著者は、明らかに善意で書いています。取材したらあまりにイイ人なので好きになってしまったりします。

『解毒剤――ポジティブ思考を妄信するあなたの「脳」へ』(オリバー・バークマン 著 下隆全 訳 東邦出版) 定価:本体1500円+税拡大『解毒剤――ポジティブ思考を妄信するあなたの「脳」へ』(オリバー・バークマン 著 下隆全 訳 東邦出版) 定価:本体1500円+税
 とはいえ、自己啓発書を数多く読んでも人生が好転せず空転ばかりの私としては、何が効いて何が効かないのか、そろそろ結論を知りたいところでもあります。

 そこで、2012年にイギリスで刊行されてから邦訳が待たれていた本書『解毒剤』の出番です。

 開いてみると小見出しがないせいで取っつきづらい印象ですが、読めば思わずうなってしまう記述の連続で止まりません。

 多くの自己啓発書に出てくる有名な逸話があります。

 1953年、エール大学を卒業する学生に「人生の目標を具体的に紙に書いているか」と調査したところ、イエスと答えたのはわずか3%。そして20年後に追跡調査した結果、その3%が築いた金融資産の合計は、残り97%の合計を超えていた――。

 目標を明確にすれば大儲け、というわけで、いい逸話です。

 ところが本書によると、エール大学に取材してみたら、そんな調査は実在しなかったというのです。

 ならばこの逸話の源はどこなのでしょうか。

 好んで引用する自己啓発業界の大物に取材した結果も載っています。すると、アンソニー・ロビンズはブライアン・トレーシーに尋ねてくれと答え、ブライアン・トレーシーはジグ・ジグラーに質問すればいいと応じ、ジグ・ジグラーはアンソニー・ロビンズにお聞きなさい、と言ったそうです。

 ……この方々の著書を、ほうほう良いこと言っとるなあ、と思って読んだ私としては、いささかがっかりする展開であります。

 とはいえ、「効果が薄いとされる自己啓発の手法でも、暗示にかかりやすい人が実践すれば本当にうまく行くことだってありえるじゃないか」と反論したい気持ちも残ります。

 ですが本書の著者は、イギリス人らしい皮肉を交えて「幸福になる手法を書いた自己啓発書を読んでも、幸福になることはめったにない」と断言します。

 特に問題なのは、ポジティブであろうとする数々の方法論だといいます。現実に不幸になったとき、人はポジティブな目標との落差に耐えられないからです。

 たしかに、本書で言及されたガブリエル・エッティンゲン『成功するにはポジティブ思考を捨てなさい』でも、すでに「成功を信じて楽天的に考えること」は有害だとデータで立証しています。

 ではどうすればいいのか。

 著者は逆を突いて「ネガティブ思考」ならかえって幸福になれるんじゃないか、と仮説を立てます。

 そして、自己啓発業界においてネガティブなことを語ったり実践したりしている人々に、片っ端から取材していくのです。

 その場所も、「イギリスで税金ムダ遣いの象徴と言われた巨大ドーム」から「アフリカで最も劣悪なスラム」まで、実に多彩で目が離せません。

 この「ネガティブ思考をたどる旅」を、著者のイヤミの効いたツッコミとともに楽しく読んでいくと、やがて読者は「ポジティブ思考で幸福になれない『自分』とはそもそも何なのか」という本質的な議論まで踏み込んでいくことができます。

 どうやら、自己啓発の世界を掘り下げると、「自我」と「死」という哲学の大問題についても考えることになるようです。そして数々の「ネガティブ思考」は、そうした問題について徹底的に考えることの効能を教えてくれますが、一発で納得のいく答えを示してはくれません。

 むしろ、考える過程で不完全な答えになったほうがいいし、そうした不完全さや曖昧さを受け入れるからこそ、人生は生きるに値するのだ、というのです。
(実は本書、いろいろと心配になってしまうレベルで誤植が多いのですが、それも「不完全さを受け入れる」として読むべきなのでしょう)

 いずれにせよ、自己啓発と名づけられた思想的潮流を、「ネガティブ思考」という切り口から一気通貫に理解させてくれる好著です。

 読み通して「解毒」すれば、即効性をうたったりやる気を出させたりする自己啓発書がなぜアテにならないのか、納得することができるでしょう。

 だけど、自己啓発業界だってその「先」を行く面白い手法を編み出してくるはずです。どんな展開になるのか気になってしまう私は、結局この分野での読書もやめられない気がします。

 ということで、やっぱり本年も乱読しそうですがよろしくお願いいたします。

  *ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

井上威朗

井上威朗(いのうえ・たけお) 編集者

1971年生まれ。漫画雑誌、Web雑誌、選書、ノンフィクション書籍などの編集を経て、現在は某月刊誌の編集者。手がけた企画は竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』、本田透・堀田純司『メカビ』、斎藤貴男『「東京電力」研究 排除の系譜』(第3回いける本大賞)、古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』など。