佐藤真 著
2016年05月12日
新鋭・田代一倫の写真集『はまゆりの頃に――三陸、福島 2011〜2013年』(2013年)や、44歳の若さでこの世を去ったノンフィクション作家・井田真木子の著作撰集(2014・2015年)を刊行した若々しい一人出版社「里山社」から、また注目すべき本が世に送り出された。前2作と同様、今回も編集者の魂がこもった、まさに全力投球の1冊だ。
『日常と不在を見つめて——ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』(佐藤真著 里山社)
本書は2007年に亡くなった佐藤が自作について記した文章や、佐藤と交流のあった人びと(赤坂憲雄、飯沢耕太郎、椹木野衣、諏訪敦彦、原一男、平田オリザ、森まゆみほか32人)による寄稿、座談会、インタビュー等によって構成されている。
9年後の追悼集、といったおもむきかと思いきや、そうではない。ここに登場するだれもが、佐藤の作品をとおして、今を語り、時にははるか先の世界を見つめている。
「作家が死んでも作品は残る」とはよく言われるが、たしかに、佐藤真の残した映画は、過去から未来に差し向けられた持続する何ものかであり、その映像が伝えてくる感触は、いつまでも解けない謎のように、何年たっても身体からはなれない。
これらの作品がもつ力は、佐藤が生涯そのテーマとした「日常」と「不在」に、どうやら関係があるらしい。
佐藤は「言葉に出したとたんに急に空々しくなってしまう気持ちや、とても言葉にしようがない感情を表現するのがドキュメンタリー映画」だと書いている。
「日常」も「不在」も、私たちには見えず、容易に言語化できないものである。と同時に、それなくしては、私たちの生はありえない。佐藤の作品では、ともすれば何も意味のあるものが映っていないように見えるシーンにこそ、もっとも豊かなものがあらわれている、ということがある。
佐藤はこうも書いている。「映画とは、動きや奥行きをとらえるだけでなく、時間そのものをとらえる映像表現なのだ」。
佐藤真には『ドキュメンタリー映画の地平』(凱風社)や『ドキュメンタリーの修辞学』(みすず書房)などの著作があり、理論にも秀でた一面をもっていたが、彼の映画は、論理だけでも感性だけでもない領域でつくられていた。
本書には、表現することへの飽くなき探求心を見せ、対象にべったりと依存しドキュメンタリーが痩せ細っていくことへの強い危惧を抱いていた佐藤の姿が垣間見える。
佐藤は単にすぐれた映画の作り手だったのではなく、新しい映画の地平を切り開こうと格闘していた。ドキュメンタリーにこだわり、しかしドキュメンタリーという枠を踏み越えていこうとしていた。佐藤が生きていれば撮られたかもしれない映画は、これまで以上に自由で、リアルで、笑いのある、そんなものになったにちがいない。
ふだんからドキュメンタリー映画を見る人は、けっして多くはないだろう。多くの場合、上映される機会そのものが少なかったり、また、上映されてもごく短い期間だったりする。残念なことだ。
ドキュメンタリーとは、説教じみた啓蒙映画のことではない。そのように誤解している人は、まずはこの佐藤真の作品を、どれでもいいから見てみるがよい。忘れられない体験になるはずだから。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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