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[書評]『漱石とホームズのロンドン』

多胡吉郎 著

松澤 隆 編集者

大都市の孤独が鍛え上げた洞察力  

 一気に読んでしまう面白さだ。

『漱石とホームズのロンドン——文豪と名探偵 百年の物語』(多胡吉郎 著 現代書館) 定価:本体2000円+税『漱石とホームズのロンドン——文豪と名探偵 百年の物語』(多胡吉郎 著 現代書館) 定価:本体2000円+税
 書名からは一見、底の知れた取り合わせに思える。

 気の早い漱石好きなら、『吾輩は猫である』の美学者・迷亭にならって《月並の見本》と評するかも知れない。大作家と架空の名探偵との配合なんて、山田風太郎(『黄色い下宿人』)や、島田荘司(『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』)が、すでに小説に仕立てている、と。

 また事情通なら、こう断じるかもしれない。そもそも漱石は、コナン・ドイルなんか読んでない、と。英国留学中に古今の英書を耽読したけれど(挙句、読書三昧の非社交的生活が祟って狂人扱いされた)、公刊された諸作品にも、日記・書簡の類にも、ホームズ物、コナン・ドイルへの言及は一切ないし、残された蔵書にもドイルの著作はない、と。

 そんなことは、10年以上の滞英生活を経験し、漱石関係の著作も本書で3冊めの著者は、先刻承知だ。でも敢えて、この2人の取り合わせで描かせた動機は、およそ100年前、世界最先端にあった英国の首都そのものへの関心である。

 コナン・ドイルは、1891年夏に始まり大評判となったホームズ物の雑誌連載を、1893年にいったん終わらせてしまう(『最後の事件』で探偵は滝壺に落ち、消息を絶つ)。だが、読者の熱望と版元の要請を受け、ついに「復活」させる。1903年秋の『空き家の冒険』がそれで、舞台年代は前の連載終了後の1894年。後に、『シャーロック・ホームズの帰還(The Return of Sherlock Holmes)』としてまとめられる13編の短編集の始まりである。

 著者は、コナン・ドイルが連載復活にあたり、電灯、自転車、柔術など、様々な新情報をとり入れたことに注目する。先進都市ならではのインフラとトレンド、後進国の伝統文化への好奇心。名探偵が活躍する娯楽作品を彩り、成熟した大衆が喝采する好材料。それこそ、大都市ロンドンを形づくる養分であり、留学中の異邦人が敏感に反応する要素でもあった。

 1900年に渡英した漱石も、電灯付きの高級下宿に憧れ、健康に良いと勧められた自転車操作に格闘し、日本の柔術家と西洋のレスラーの対決を観戦した。ホームズが(つまりコナン・ドイルが)注視した都市の設備と流行に、漱石もまた刺激を受けていたことが、日記や書簡、本格的作家デビュー前の文章を読み解くことで、明らかにされる。

 著者が最も本領を発揮するのは、2年余りのロンドン暮らしで4度も移転した漱石の下宿の社会的差異の解剖だ。

 具体的には、当時のテムズ川北の高級住宅街と、川南の新開地との格差。首都で一定水準の生活を過ごすことも官費留学の意義であるならば、留学生夏目金之助は川北に住む資格があった。しかし、官費の3分の1を書籍購入に充てるためには、節約が優先。結局、不愉快で貧弱で安価な川南の宿を探すしかなかった。

 「北」への羨望は、数少ない知己、池田菊苗(「うま味」成分で知られる化学者)と訪れたカーライル博物館の名簿にも刻まれる。ケンジントンに住む池田の氏名に併記した漱石は、住所欄に「〃」と書いた(撮影写真掲載)。つまり、自分も「川北」住人と偽ったのだ。羨望は呪詛に変じ、最初に1度住んだ「北」の大家一家を、後年、『永日小品』の2編(『下宿』『過去の匂い』)において、事実とは異なる、暗鬱で背徳的な家族として造形するに至る。

 しかしその漱石の作為は、ロンドンの暗部の照射としては正しい視角だったのである。格差と闇。それを著者は、ホームズの『帰還』に描かれた事件や人物の分析から、次々にあぶり出してゆく。ここが本書の読みどころだ。成長を続ける都市がもたらす陰影を、探偵の物語から読み解く。その瞬間、贔屓による付会ではなく、同時代人の記述として、漱石が同期する。みごとな手際と言えよう。

 著者の前著『スコットランドの漱石』(文春新書)は、日本への帰国直前、1902年秋に訪れたスコットランドが、どれほど漱石に感銘を与えたかを探った労作だった。しかし、漱石に語らせる手法が長く、あたかもそっくりさんの《再現ドラマ》が頻出するドキュメンタリー番組のようで、やや食傷した(著者は元NHKのプロデューサー)。スコットランドの名勝ピトロクリへの漱石の追憶は、端麗かつ静謐な魅力で比類ない小品『昔』に結実しているゆえに、なおさらである。

 本書も後半、《再現ドラマ》は出てくる。だが今回の配分は、程がよい。名声を博したコナン・ドイルがやがて、心霊術に傾倒するくだり。第一次大戦で何人もの家族を失った人気作家が、死者との「交信」に没頭していく姿は凄絶で、戦禍の一面として説得力をもつからだ。戦争が、(名探偵を育んだ)洞察力をも消し去ることを、著者は示唆する。

 漱石が亡くなったのは第一次大戦中、文筆活動を始めたのは日露戦争前夜だった。日露初戦時、国粋的な新体詩『従軍行』を詠む一方、諷刺的な掌編『趣味の遺伝』も著した。やがて、試行と省察を経て、愛読に耐える名作の創造へと質を深めていった。

 顕在か潜在かの別はあっても、20世紀という戦争の時代の「文明の宿業」を見逃さなかった漱石の視座の確かさは、古びない。その精神は先進都市ロンドンで異邦人として苦労を重ね、洞察力を鍛え上げた体験があればこそ生まれた。それを再認識させてくれるのが本書。まさに、没後100年にふさわしい好読物と言っていい。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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