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『シン・ゴジラ』が描く3・11後の戦慄(下)

膨大なオマージュを重ねる技法から何を読み取るか

高原耕平

『シン・ゴジラ』が描く3・11後の戦慄(上)――庵野秀明は「この国」の怪獣をどう演出したか

抑制される悲鳴――初代『ゴジラ』との比較

 ゴジラの圧倒的な不気味さと、それに対抗しようとする行政機構の手続きや会話の積み重ね。作中ではこの2方向の演出が不思議と上手く噛み合っている。ここに『シン・ゴジラ』の面白さがある。

 他方で、「人類」側の動きが徹底的に政・官・軍(自衛隊)の活躍に絞られていることは、評価が分かれるだろう。登場人物たちのセリフは、終始、主語も目的語も「日本」「この国」「わが国」だ。しかしその「わが国」の中身が何であるかというところまでは踏み込まない。

シン・ゴジラ拡大『シン・ゴジラ』=提供・東宝
 映画ライターの渡まち子氏は、登場人物たちの「日本の未来を信じて突き進むヒロイズム」に涙を誘われたと評しているけれど(【映画評】シン・ゴジラ)、ヒロイズムの突き進む先が無理に「日本の未来」だけである必要もないのではないだろうか、とわたしはおもった。東日本大震災でもたくさんのヒーローがいたはずだけれど、かれらが全員「日本の未来」を目指していたわけでもないだろう。

 初代『ゴジラ』では、逃げ惑う「民」の悲鳴や、恐怖に歪む表情が、なんども映し出されていた。3人の幼子を抱きかかえた母親が「もうすぐお父ちゃまのところに行くのよ」と言うシーンは有名である。疎開のトラックに子どもを載せようとするシーンや、救護所で母親を求めて女児が泣くシーン、沈没した貨物船の乗組員家族が船会社の社員に詰め寄るシーンなど、民衆の悲痛や恐怖がくりかえし生々しく描かれる。

 『シン・ゴジラ』では、こうした表情はほとんど見られない。群衆が逃げ惑うシーンはもちろん挟まれるけれど、国家と国民に奉仕する政治家・官僚・自衛隊員たちの、きりりと引き締まった表情が画面の大半を占めている。

 『シン・ゴジラ』の宣伝コピーは「現実 対 虚構」「ニッポン 対 ゴジラ」である。しかし「日本国 対 ゴジラ」とするほうが正確だろう。「ニッポン」と「日本国」をさしあたり同一視するというフィクションを、エンターテイメントとして受け入れるべきか否か。 ・・・続きを読む
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筆者

高原耕平

高原耕平(たかはら・こうへい) 大阪大学文学部博士後期課程

大阪大学文学部博士後期課程(臨床哲学専攻)。大阪大学未来共生イノベーター博士課程プログラム所属。1983年、神戸生まれ。大谷大学文学部哲学科卒。研究テーマは、トラウマに関する精神医学史、ドイツ哲学、阪神淡路大震災。最近の論文として、「反復する竹灯篭と延焼 阪神・淡路大震災における〈復興/風化〉と追悼の関係」(『未来共生学ジャーナル』3号、2016年)など。